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2019/04/10

桜の樹の下には命蠢く

Hidden_l_1 ← シャンカール・ヴェダンタム 著『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』(渡会圭子訳 インターシフト) 「無意識の小さな思い込みが、暮らしや社会に与える大きな影響について明かした」とか。

 シャンカール・ヴェダンタム 著の『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』を一昨日、読了した。
 昔なら無意識という言葉をやや無邪気に、あるいは好きな風に解釈して使っていたものだ。背景には、フロイトの影響もまだ強かったこともあろう(吾輩自身は、今は、振り子が逆に振れ過ぎていると感じている)。
 本書も無意識という言葉が頻出する。隠れた脳というのも、昔なら無意識という言葉乃至概念で表現しようとしていただろう、人間の行動への本人も伺い知れない、あるいは自覚しきれていない、特に集団での行動の傾向を左右する脳の仕組みというところか。
 言葉に敏感なものには、やや粗雑な無意識という概念の使い方に辟易するだろう。

 本書の面白みは、半ばからだと感じた。2001年の世界貿易センタービルへの旅客機の突っ込みというテロ事件での当事者となった人々の動きの分析が、当時の内実の一端を知るうえで興味深かった。
 それ以上に気を引いたのは、特攻隊に志願する若者たちの心理分析(これは日本のこと)や、自爆テロへ走る若者たちの動機の分析だろう。決して、変り者や落ちこぼれではなく、むしろ、その組織の中の優れた自覚を持つ、他から崇敬されるような人物が率先して自爆テロに走るという。その分析はなかなか興味深く、実際のその渦中にあったら、その行動パターンから抜け出すのは至難なのかもしれないと感じさせられた。
 一番、怖かったのは、ガイアナ人民寺院の悲劇(1980) だろう。読むほどに恐怖を覚えた。「この惨劇では、実に918人もの人々が、人民寺院の開拓した辺境の町(コミューン)・ジョーンズタウンで、大量殺人、もしくは集団自殺によって命を落とした」事件である。
 この項は、ネタバレになる以前に、閲覧注意ということにしておく。

81hg9dswyrl__sy445_ ← 『ガイアナ人民寺院の悲劇 [DVD] 』(監督: ルネ・カルドナ・Jr クロックワークス)

 昨夕は、銭湯へ行きそびれた。読書の手を休め、そろそろ行こうかなと思って、ふと外を窺うと、雨の筋が傾き始めた日の光に、銀の糸のように。自転車を転がして行くのを楽しみにしてただけに、がっかり。自宅の風呂は、ボイラーが不調で、最小限のお湯を張るだけでも一時間を要する。多分、お湯の菅が錆びているのだろう。お湯がずっと、淡くだが茶褐色。
 ちなみに、ボイラーは、3年前に新調したもの。一昨年だったか、冬になって、風呂場や脱衣場の寒さに耐えられず、銭湯へ。降雪量の多い年で、車で。四月半ばになって使用を再開したら、ガバゴボゲビと無気味な音がするばかりで、出るのは赤錆の湯がチョロチョロと。風呂は論外でシャワーもダメ。夏場、庭仕事で汗を掻いたあとには意地でも使いたくて、シャワーだけでもと、試みた。なんとか、チョロチョロがチョロ~とは出るようになった。でも、風呂には、ハードルが依然として高い。修理費が怖くて業者も呼べずにいる。

西山松之助『くるわ』(昭和38年 至文堂)

 昔、遊廓だった建物は、今は残り少なくなっている。遊廓を探訪する趣旨のツアーや関連本も出ているようだ。遊廓や遊女を文化として再評価する向きもあるような。しかし、遊廓…廓は、女にとって地獄だった現実から目を背けるのは、いかがなものか。本書「廓」は、一度は読んでほしい本。ただし、最後のほうの、百頁ほどは、破り捨てるべき。党派の紋切り型の駄弁が続くだけ。そこさえなければ、本書は名作に推せるのだが。

 春が何か胸のときめく頃であり始まりの時、命の輝く季節だったのは、いったいいつの頃までだったろう。枯れ木のようだった裸木が芽吹き、砂利道がいつしか雑草の蔓延る鬱陶しさを露にし、玄関の戸を開けると、生暖かな空気と共に浮塵子が纏わり付き、排水溝は黴に覆われ、近所の店を訪ねて帰っただけなのに汗が滲む。訳知らず憂鬱の念に押し潰されそうなのは、何故だ? 空にも地にも、そこたらじゅうが命に満ちている。横溢する生命力が私を圧倒する。駆けすぎて行くものの滴る汗と熱気が私を消し去るようだ。
 春の憂鬱。鬱勃たる空気。明けない朝と何処までも暮れて果てない夜の間の、際限なく間延びするばかりの、濃密なはずなのに空白というの時の連なり。芽吹きは、私の腐蝕を糧にしているのだ。私を踏み台にしていることに気付かぬ鈍感さという残酷さ。ああ、私を魅して春の魔の蠱惑よ。

16281 ← 著/志村ふくみ・若松英輔『緋の舟 往復書簡』(求龍堂)「染織家・志村ふくみと、志村を敬愛する批評家・若松英輔の往復書簡集」。

 多分、この読書メーターで遭遇した。染色作家の志村ふくみ氏と批評家の若松英輔氏との往復書簡。共に我輩には初めての人物。染色作家という仕事に惹かれた。もっと云うと、石工にしろ、大工にしろ、彫刻家(わけても石碑や墓石の)にしろ、漆喰などの左官、電気(電機)工事士、歯科技工士、彫金作家などなど、実務の専門家の仕事や発想、心構えが気になる。人間国宝の志村氏を彼らと同列にするわけではないが、日頃、接することのない、プロの仕事(に対する姿勢)を垣間見たいのだ。

 桜の樹の下には死骸などそう滅多に埋まってるもんじゃない。

 いや、埋まってるか。足下にはたとえアスファルトに隔てられていようと、土が凝縮された沈黙だとばかりに埋まっているじゃないか。土は岩の成れの果て、腐蝕した落ち葉の残骸、苔の菌糸の横溢、蚯蚓の糞、仮寝する花粉の塊なのだ。犬や猫や酔漢の濃密な排泄物や、流した血と涙と溜息とで以て味付けされている。もう間もなく、桜の花びらが舞い散り、風に吹き寄せられ、能天気な人々に見棄てられ、茶褐色に褪せ、腐って、土の仲間入り。

 桜の樹の下には、命たちの寡黙な葛藤が犇めいている。

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