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2019/03/31

タコもスタンダールも

 

808  ← サイ・モンゴメリー著『愛しのオクトパス 海の賢者が誘う意識と生命の神秘の世界』(亜紀書房 ) 個性豊かなタコたちと、八本の腕と吸盤を通して交流を重ねるうち、著者は他者なるものが持つ「もうひとつの知性」の可能性を感じ始める。

 タコ、凄いし面白い。心臓が3つだって。ニューロンの数もかなり。犬7億、タコ5億。中枢神経が頭にあるけど、脚にもある。脚が千切られても、しばらくは勝手に餌探しして、吸盤付きの脚で掴むと、(今はなき)口へ運ぼうとする。あれれ、である。滑稽? 不気味?

 この頃よく夢で目覚める。いいこと……やはり、良くないことのシグナルか予兆か:何処かのホール(体育館風)にいる。下のホールの一角に俺が立っている。周りには好くなからぬ人々がいる。ホールを見下ろす白い手すりの回廊に何人かの女性らが。その中の一人はあの人だ。先に気付いたのは俺のほうだったか。あの人も俺に気付いたはず。俺は手を振ってあの人の気を惹こうとする。ついに会う時がやってきたという確信と若干の不安の念であの人を見詰める俺。あの人だって俺をみつめているのだ。そして二人は……。目覚めた。くそ!

 スーパーでパック入りの大根おろしに感激し、即、ゲット。今朝、余った大根おろしを豚骨ラーメンに入れてみた。すると、おでんの大根を浮かべた感じの味。結構、いける。人に勧める気はないけど。

 蒲松齢作の『聊斎志異(上)』(岩波文庫)を読み始めた。車中の友。
 百頁ほど読んだ。何処か福永武彦編訳の今昔物語(日本篇)を思わせる。福永訳だったら味わいも違うか。似た趣向の話が続く。飽きずに読み通せるか。掌編に近い短編が続く。数編ずつ読んでは休む。気が付くと百頁を超えていた。となると、案外と読み続けられるということか。

コレクターズ版世界文学全集 (1) スタンダール 赤と黒』 (鈴木力衛 (翻訳)  日本ブック・クラブ )を読み始めた。
 書庫の奥にあった本。本をふとパラパラ捲っていて、最後の頁を見てびっくり。大学の一年の秋、友人から寄贈された本だ。日付も入っている。すっかり忘れていた。気づいた以上は、懐かしさもあるし、数十年ぶりに再読する。
 読みだしてまだ20頁ほどだが、ジュリアン・ソレルという主人公の名前や場面を思い出してきた。

 ただ、題名の「赤と黒」の意味するところをすっかり誤解していた。情熱の明るい面と暗い面を象徴すると思い込んでいた。そうじゃなく、ジュリアンの野心を象徴するのはそのとおりだが、「赤はナポレオン時代の軍人の栄光を、黒は王政復古下の僧侶の権勢を象徴」しており、ナポレオンを崇拝するジュリアンが、出世のためやむをえず黒に賭けることを表している」という。
 スタンダールは、学業においてお出世のため、数学を学校ではなく、家庭教師に習って優秀な結果を残した。数学は曖昧さを許さないことが気に入ったのである。彼の小説も、過剰な装飾を避ける明晰さを特徴とする。スタンダールの生前にあっては、極めて特異な表現とか。

9784826902076_3  ← アントニオ・ダマシオ 著『進化の意外な順序  感情、意識、創造性と文化の起源』(高橋洋 訳 白揚社) 「太古の単細胞生物から、神経系の構築、感情や意識の出現、そして創造性へ――(中略) 彼の独自理論をさらに深化させ、文化の誕生に至る進化を読み解く独創的な論考」とか。

 過日、本書を読了。

 アルゴリズム万能主義の世にあって、その危うさをダマシオは説く。人間(生き物)は、中枢神経系に象徴される知能のみで生きているわけではない。内臓や皮膚も含めた肉体全体という、総合的な存在。その存在感は、我々が感情という、アルゴリズムの範疇には(当面、あるいは相当研究が進むまでは)入りきれていない、曖昧だけど極めて生き物にとって大切なサバイバル機能が考慮されていない。ロボットには、アルゴリズムの能力を高めても、感情モドキが加わってくるのは可能性として乏しい。ただし、ディープラーニングは事態を変えるかもしれない。データを膨大に取り込み、翻訳も通訳も、感情モドキをも実際の現場での応用を実現させる。ティープラーニングの持つ可能性は想像を超える。


 十年以上前、「デカルトの誤り」以来、注目してきた神経科学者・神経科医。宇宙像も生物像も、脳科学も、近年、大変貌を遂げつつある。進化論の枠組みは変わらないとしても、その内実は変貌しつつある。世界の地政学的構図すらも。まさに今、我々は大変貌の真っ只中にある。
 知の世界、認識の領域においても、大変貌を遂げつつある。かの哲人が(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが『法の哲学』(1821年)の序文で)述べたように、今まさに、「ミネルバのふくろうは迫り来る黄昏に飛び立つ」時なのかもしれない。

 約40乃至38億年前、原始的な生命が誕生。細菌と呼べるかも分か。らない微生物。生命の基本原理の一つは、遺伝子。誕生当初の生命体に遺伝子機構があっただろうか。生命の定義として、ホメオスタシスがある。生命体の外から何かを吸収し、何かを排泄し、一定の仕組みを維持する、その安定してある状態を維持すること。それができて、原始的な生命体が成ったとする。その上で、その仕組みを次世代へ伝える遺伝子機構が備わった。

 原核細胞、やがてずっとあとになって真核細胞が生まれた。何れにしろ、生命の歴史の大半は細胞だけが占めていた。遺伝子機構もだが、細胞間の競争以上に協力関係も築かれていった。人間が意味するものではないとしても、意志の疎通のノウハウが成っていた。多細胞生物は勿論、人間は新参モノ。近年ようやく人間と微生物との共生が注目され始めている。が、ここには大いなる錯覚、勘違いが潜んでいる。

 言われているように、腸内だけでさえ、人間の体細胞(約10兆から30兆)の数倍、約100兆が棲んでいる。人体の周りとなると、人体の10倍以上とも。そう、我々人間が細胞たちと共生しているのではなく、小生も常々強調しているように、細胞……微生物の大海の只中を漂流している、つまり、多細胞生物たちは、細胞の海に寄生させてもらって、やっと生かせてもらっているのだ。このことは、何を意味するか。

 本書の記述はまさにこうした、生命観の大前提を覆すことから始まっている。やがて、神経が出来、神経系が成り、ついには中枢神経系……脳が成る。大きなイベントではある。ただ、ここで肝要なことは、神経系は後付けであり、細胞群(体)をいかしめる道具なのだという点。我々が、心とか気分と呼んでいる、つかみ所のない、でもある意味、一番大事なものこそが、細胞群が生んでいて、体の維持を、恒常性を保たせている。脳は、心や気分を感じ取れても、左右するのが困難なのは、中枢神経系をも包含する人体の内外の百数十兆の意志(スピノザの云うコイトゥスか)こそが主役だから。

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