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2018/12/06

『今昔物語』あるいは犬死の語源?

9784480025692

← 福永 武彦編訳著『今昔物語』 (【解説: 池上洵一 】 ちくま文庫 筑摩書房) 拙稿:「『今昔物語』:風のかたみ

 昨日(火曜日)の季節外れの暖かさから一転、今日(水曜日)は一気に冬の寒さが襲来した。今週末には雪さえ予報されている。
 そんな中、冷たい雨の降る庭で、傘を差しながら落ち葉拾いをやっていた。前夜からの風雨で紅葉もほぼ散り終えた感がある。落ち葉掃除もそろそろ終わりに近づいた……と思いたい。

 福永 武彦編訳著の『今昔物語』 を読了した。

 一昨日だったが、以下のような日記を書いていた:
 

福永武彦編訳の『今昔物語』(ちくま文庫)を日々数十頁ずつ読み進めている。面白い。
 これはある日の呟きだが:「今昔物語」の中の物語の一つに出てくる勧修寺が実在しているなんて。興味深い。歴史と物語を象徴する寺がある。ゆかしい。
 そんな京都が羨ましい。京都生まれ…せめて在住だったら、地元を散歩するだけで古今の歴史に触れられる。

 池田弥三郎による注釈などを含めると、680頁ほどの本だが、退屈させない。
 前回……たぶん、十年ほど前に読んだ時より楽しめた。福永氏の現代語訳が明晰で且つ馴染みやすい。昔の物語のはずなのに、すっとその世界に入って行ける。

 平安(に限らないだろうが)の世は、都に限らず治安は今の我々には想像も及ばないものだったのだろうと痛感させられる。夜の道を女が一人歩くなんて、論外。男でも相当な用意か覚悟が要る。
 日本は国土的に狭いと思われがちだが、一昔前は、一歩、町中を離れると、そこは異郷。まして夜になると闇の世界があるだけ。闇の深さが今とは雲泥の差なのである。

 以前にも紹介したが、八岩まどか著『匂いの力』(青弓社)によると;

『醍醐天皇御記』に、演技十年(九一〇年)正月四日のこととして「内裏において犬死の穢があったために祈年祭を延期した」という内容が書かれている。また『貞信公記』にも、「犬死の穢によって参内せず」「牛死の穢によって大原野祭を中止した」などの内容が散見される。(中略)
 ここでいう「犬」というのは、宮中や貴族の屋敷で雑役を担っていた一般民衆のことである。平安京の支配者たちにとって人間とは、天皇を中心とした国家のなかで公式な位や職を与えられた者たちのことであって、こうした人間に雇われている一般民衆は、人間に餌をもらって生きる「犬」とみなされていたのである。ちなみに「牛死」「牛馬死」の場合は、言葉どおりの動物の牛・馬の死体を意味していた。

 この辺りに、「犬死」の語源があるのだろうか。

 付き従う人などあるはずもない一般民衆が人里離れた道をどうやって無事に歩けたのか不思議でならない。
 日中しか歩かないというわけにもいかなかっただろうし。
『今昔物語』は仏教説話臭が濃いと思われがちである。
 実際、結末で法華経信心のお蔭だとか、もっともらしく付記してあるが、実際に読んでみると、『源氏物語』や『枕草子』などの雅な世界とは懸け離れた、生臭く人間臭い世界が厳然としてあることをきづかせてくれる。
 雅と下世話の両方があって平安の世の奥深さが知れるわけである。
 福永訳はお勧めである。

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← 『カフカ全集〈6〉城 』(前田敬作訳 1981年 新潮社)

 本書『カフカ全集〈6〉城 』を読むのは久しぶり。書庫から引っ張り出してきた。本書は、2度目。東京在住時代、入社して間もなく購入したものか。全集を揃えたかったが、半ばで挫折。
 文庫本で「城」を読んでいるので、通算すると3度目かな。カフカは格別な作家。難しい表現は見受けられないのに、深い。

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