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2018/07/29

ネアンデルタール人から写実絵画へ

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→ 今日はやや気温が低く、午後の1時まで、エアコンは使わず。でも、一気に蒸し暑くなり我慢できずエアコン使用。午後の5時過ぎ、風が吹いてきた。今日も庭仕事。二時間弱。隣家との間の側溝付近を徹底して。集めた枝葉は、袋や箱に詰め、作業小屋に仮置き。外だと風に飛ばされそうだから。週に2度、これくらいは燃えるゴミの日に出す。いうまでもなく、普通の生活ゴミは別途、出る。幸い、富山は台風の直撃は避けられそう。被災地のほうに襲来しそうなのが心配である。

 松井 文恵/安田茂美共著の『写実絵画とは何か? ホキ美術館名作55選で読み解く』を読み始めた…眺め始めた。

写実画のすごい世界」に続いて本書に手を出した。抽象表現主義の作品やアンフォルメルの作品は今でも好き。一方、日本では戦後もずっと写実画に専心してきた人たちもいる。ひたすら対象を愛し眺め丁寧に描いていく、その営為が素晴らしい。

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←  松井 文恵/安田茂美 (著)『写実絵画とは何か? ホキ美術館名作55選で読み解く』(ホキ美術館 (監修) 生活の友社) 「もっと身近に、もっと素敵に見える写実絵画の楽しみ方を、現代の画家たちが描いた作品をモチーフ毎に豊富なカラー図版でご紹介します!」だって。

 この数年、写実絵画に惹かれています。ただ、まだ、一度も実物を鑑賞する機会に恵まれていない。なので、画集や本で楽しんでいます。
 写実画と写真との異同は、写実画でも画家によって画法がいろいろなので一概には言い難い。自分にもよくわかりません。
 敢えて言うと、写真にはフォーカスがある。何処かしらに焦点を合わせる。となると、焦点を外れるにしたがって画像がぶれる。近年は、画素数が非常に高いことでその欠点が補われている。一方、写実画の場合、焦点(それとも画家の対象への愛情)は、絵画の画布のあらゆる細部に合わさっている。

 クライブ・フィンレイソン 著の『そして最後にヒトが残った  ネアンデルタール人と私たちの50万年史』を読了した。
 著者はネアンデルタール人の専門家。研究データを幅広く渉猟し、安易な図式的理解に走らない姿勢が好感を持てる。その分、結論めいた見解を求めたがる史郎にはもどかしいが、実際、分からないことも多いのだろう。なんといっても、いくら遺伝子解析が力を持ってきたとはいえ、最後は遺跡の発掘がものを云うのだ。

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← クライブ・フィンレイソン 著『そして最後にヒトが残った  ネアンデルタール人と私たちの50万年史』(上原直子 訳 近藤修 解説 白揚社) 「私たちと同等の能力をもった彼らネアンデルタール人が、どのように繁栄を勝ち取り、やがて絶滅していったかを、数々の新しい知見とともに解き明かすスリリングな科学読み物」とか。 

 ただ、本書は5年前に刊行された本()原書は2009年)。本書の解説で近藤修氏が書いておられる点に注意。「本書では、ネアンデルタール人と現生人類の間の交配可能性については、ほとんどないと述べられている」が、最近の研究で、「ネアンデルタール人はサハラ砂漠以南の現代アフリカ人よりも、非アフリカ人とより多くの遺伝的変異を共有していることが判明した」とのこと(解説にはより詳しく書いてある)。
 ちなみに、「過去の人類集団間での交雑の可能性は、ネアンデルタール人以外にも指摘されている。デニソワ人と我々が呼んでいる化石人類」とも可能性があるとか。近年、デニソワ人に脚光が浴びせられているようだ。

 著者は適切な時に適切な場所にいる事こそが進化の切っ掛けになり、逆に適切過ぎると今度は環境変化等々に対応できず滅びていくこともある。我々は、むしろたまたま生き残ったに過ぎないのかもしれないと語る。

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