読書と庭仕事の日々
← クライブ・フィンレイソン 著『そして最後にヒトが残った ネアンデルタール人と私たちの50万年史』(上原直子 訳 近藤修 解説 白揚社) 「私たちと同等の能力をもった彼らネアンデルタール人が、どのように繁栄を勝ち取り、やがて絶滅していったかを、数々の新しい知見とともに解き明かすスリリングな科学読み物」とか。
クライブ・フィンレイソン 著の『そして最後にヒトが残った ネアンデルタール人と私たちの50万年史』を読み始めた。
テレビでも現代人とネアンデルタール人との対比や関り、違いなどの特集がよく組まれる。たいてい、録画で観る。でも、やはり、書籍の形でじっくり理解したい。
下記するように、ポピュラーサイエンス本でも、数学や物理という理系から、同じ自然科学の理系でも人類史というジャンルへ。並行して、新井白石の『折たく柴の記』を読んでいる。こちらのほうは、来月上旬までじっくりと付き合う予定。
今日も暑い。夕方五時半から二時間、密度の濃い庭仕事。相変わらず、剪定した庭木の枝葉の袋詰め作業を延々と。
この数年、庭の片隅や作業小屋に溜めてきた、剪定した枝葉や木々など。せっせと細かく切り刻んだり、幹から枝を切り取ったりして、袋に詰めて、燃えるゴミの日に出す。ポリ袋や紙袋、段ボール箱に数個分、週に二度、捨てている。まだ半年は作業が続く。袋詰めの際、怖いのは、バラの枝やトゲの鋭い葉っぱ、そして栗のイガ。不注意に触ったり握ったりすると、指先などをチクッと刺す。これが痛い。それにトゲが刺さる。
革の手袋! そんな発想はなかった。オートバイ用の皮の手袋なら持っているけど、トゲ対策の手袋は必須。探してきます。あと、欲しいのは、曇らないゴーグルです。
朝日新聞(7月20日)に、「(月刊安心新聞plus)世界の水問題 海外の水源に依存する日本 神里達博」なる記事が載っていた。
過日の豪雨禍は今も進行中。では、水は有り余っているか。そんなことはない。水の使用可能量は限られている。今、世界では水の争奪戦が激しくなりつつある。
例えば、「Tシャツを1枚作るために、ある試算では、2900リットルもの水が、原料の綿を育てるために消費されるという。従って、私たちが安価な綿で作られたTシャツを途上国から1枚輸入することは、見方を変えれば、その国の淡水を約3トン輸入することと等価なのだ」。「輸入品を、仮に自国で生産するならば、必要になると推定される水」のことを、バーチャル・ウォーターと呼ぶ。ロンドン大学のアラン名誉教授が導入した概念である」とも神里達博は述べる。
本稿の主旨は、上記したように、輸入大国の日本は、海外の水源に依存する日本でもあると指摘することだろう。地球上の使用可能な淡水は、非常に限られている。しかも、途上国がどんどん水を使うようになる。こうした警鐘を鳴らす主張は、大切であり、もっと広く認識されるべきだろう。ところで、小生が驚いたことがある。それは、日本は、実は莫大な量の水を輸入しているという指摘は、数年前どころか、十数年前から指摘されていたこと。
それが、近年、有識者らが今更のように指摘していること。昔、2001年にホームページを開設して間もないころ(2004年にブログを開設する前)、日本は海外で生産された農産物(工業製品)を輸入する形で、実は水を大量に輸入している(消費している)のだという指摘を受け、なるほどと思い、関連の記事をホームページに書いたことがあった。
朝日や日経などの関連記事を読んで、何を今さらと思ったが、事態は深刻の度を深めているだけじゃなく、解決の糸口を見いだせていないことを再認識すべきことを知らせているということなのだろう。
例えば最近の豪雨禍を鑑みるに、林業の大切さです(あるいは山や森の大切さ)。安いからと海外から木材を輸入するのではなく、山林を維持保存するという観点を含めて、国内産の木材の活用を考えるべきと思います。価格だけじゃない。あるいは、国内の土壌を守るという大きな観点を鑑みた価格を考えるということを思います。
← マルコム・E.ラインズ【著】『物理と数学の不思議な関係―遠くて近い二つの「科学」』(青木 薫【訳】 ハヤカワ文庫) 「あくまで自然現象が研究対象の物理と、抽象世界に遊ぶ数学とは、似て非なる学問。しかし、斬新な物理理論構築の決め手になるのは往々にして、物理学のためどころか、現実に役立てることさえ念頭になく、100年も前に作られていた数学の成果だったりする。なぜそうやって、いつもうまくいくのか?」
マルコム・E.ラインズ著の『物理と数学の不思議な関係―遠くて近い二つの「科学」』を読了した。
昔、単行本で読んだはずだけど、好きなテーマの本なので、改めて手にした。
そういえば、つい先日読んだ、マーカス・デュ・ソートイ著の『知の果てへの旅』(冨永星/訳 新潮クレスト・ブックス)も同じテーマを数学者の立場で扱っていた。
マーカス・デュ・ソートイの本は、数式も少なく一般の平均的な読者も付いていきやすい。
一方、マルコム・E.ラインズの本は、数式に弱い吾輩にはクラクラする記述も多い。というか、ほとんど右の耳から左の耳を通過することもしばしば。
それでも、主旨は明瞭で、話題も、物理の話題が幅広く、数学や物理の歴史的経過を踏まえた理解が望める。
理解できたかどうかは危ういが、読後感は充実している。
興味深い指摘が読書メーターでの呟きであった。その国の文化の最後の輝きを予感させる現象が今、日本で起きているのでは云々。確かに、ローソクは消える前が一番明るいという。フランスは、『失われた時を求めて』で、サロン文化の最後の輝きを描いた。ロシアは、ドストエフスキーやトルストイの『戦争と平和』で、皇帝支配の過酷な社会の軋みを描いた。アメリカは、メルヴィルの『白鯨』が、ピークか、それとも20世紀に匹敵する作品があったか(トランプ大統領がアメリカの凋落を如実に示している)。ドイツは『魔の山』?
中南米は、マルケスの『百年の孤独』がピークを示した。一方、中国は、魯迅や老舍巴金あるいは、莫 言の『豊乳肥臀』など、古典も豊穣なら現代も今も隆盛である。では、日本は? まさか『源氏物語』がピークだった? 20世紀だと、島崎藤村の『夜明け前』が明治維新の蔭で呻吟する庶民の相克を描いて傑作だが。
『失われた時を求めて』の現代語訳が各種あり、今も訳されつつあるのか。吾輩は単純に、自分が出版社の大手なら、この本は是非にも自社から出しておきたい。レパートリーの一つとして。西欧文化の受容は豊かですが、同時に今、中南米や、中国や韓国などアジア各国、アフリカなど、西洋から世界へと視野が広がりつつあります。日本が衰退しているかは、分かりませんが、人口の減少は経済や文化を含めて衰退の予兆かもしれないですね。少なくとも、戦後一時期の多様さや隆盛は見られないような。
余談ですが、哲学科卒の自分は、ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』が愛読書(だった)。全集を買ったほど。この大著(『失われた時を求めて』ほどじゃないけど)も、昭和の四十年代、四種類の翻訳が出た。吾輩は、その四種類を全部、買って読んだ。訳したくなる名著なのだ。
日本にとってのプルーストって。こうしたプルースト現象って、日本だけなのでしょうか。他国での翻訳事情はどうなんでしょうか。
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