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2018/06/04

自分の汚れを洗い流すために書いている

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→ 無風晴天の午後、畑の見回り、草むしり、落ち葉拾いなどで三時間ほど。汗をかいた。栗やキウイフルーツなどの無駄な葉っぱを剪定していたら、驚きの光景。アンズに実が呆れるほどいっぱい生っているではないか。昨年も豊作だったけど、今年はもっと! 昨年は、アンズ酒を造った。今年は、大きな瓶本分はできそう。

 どくだみ茶を作る呟きを読んだ。我が家の庭にも、隣家の御婦人が遺したどくだみ草が蔓延っている。もう退治しきれない。亡くなった御婦人の遺族の方に退治をお願いしたいところ。それはともかく、今は厄介者の始末に嘆くだけ。折々、知り合いにどくだみ茶を作ったら、体にいいし、などとアドバイスを貰ったりする。何が、無精者の我輩がそんな面倒なことをするものか! が、年々、我が思いも揺れてくる。今年は作ってみようか:
どくだみ茶の作り方と飲み方|採取する時期や乾燥のコツと飲む量は?

 駅のロータリーの(太陽光発電を動力源とするらしい)時計。今日の狂いは7分ほど。一昨日は10分以上だったことを思えば、まあまあか。数年来、ウォッチしてきたが、一貫して数時間は違っている。最初の頃は、思わず自分の腕時計が狂ってるのかと、慌ててあちこちの時計を見比べたりしたが、もうすっかり慣れっこで、今日もいつも通り三時間ほど違ってるな、いつになったら直すんだろうと思うだけ。それが、である。年初に驚くべき事態が発生した。
 そう、朝見たら何と、時刻が合っているではないか! 思わず目を凝らしたものだった。数年来の念願が叶った。ホッと安堵の胸を撫で下ろした。同時に、毎朝の楽しみが無くなったようで、一抹の寂しさの念がなかったとは言えない。数ヵ月は時計を見るのも忘れていた。合っている時計なんて何の関心の対象にもならない。が、である。連休も開けた頃、久しぶりに時計を見たら、また、狂っている! 何だか旧友に会ったような、不思議な安堵感を覚えた。建て前ではあったが、誰か駅の管理者はいないのか、などと呟いてみたり。
 すると、今度は我が呟きを誰か見たのか、数日後に見たら、何と合っている。さすがに、我が思いは天に通じたということなのだろうか。今度ばかりは時計がほんの数日で狂うようなことも、よもやあるまい……。甘かった。一週間ほどして眺めてみたら、しっかり10分以上も狂っている。まあ、今日見たら7分ほどだし、狂いは縮小しているし、ちょっとはましか、と思って何気なく時計をみやって見たら、何てことだ、この呟きを書き込む短時間の間に狂いが20分以上になっているではないか! ミステリーだ。狂いが縮小したり拡大したり。
 どうやら、午前中、一時間ほど止まり、また動き出したようだ。今は、一時間二十分ほどの狂い。日本一、気紛れな時計ってことで、評判になる……わけないね!

 飴のようにしなだれる時計といったダリの有名な絵があるが、こちらは時刻の表示が戯れている。

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← トマト、キュウリは、ビニール袋を外した。ナスは、今一つ生育に勢いがない。支柱などを設置。もう間もなく…梅雨明けには収穫開始だ。

 ジョルジュ・バタイユ作の『有罪者 無神学大全』を本日未明、読了した。本文は昨夜読み終えていたのだが、解説などは自宅に帰ってから。

 読んで、ほとんど理解できなかった。かなりハイブローなアフォリズムの数々に翻弄されるばかり。解説を読んでも、分かったような……やはり不全感。
 それでも、読み通したのは、神や死や戦争や愛、女への真摯な問いかけと、背を向けるしかない絶望の念の切迫感があったからだ。
 ニーチェ(のアフォリズム)の哲学からの影響が言われるが、ヘーゲル、特に「精神現象学」のヘーゲルの影響を感じた。

 学生時代、樫山欽四郎訳によるヘーゲル『精神現象学』(世界の大思想 河出書房新社 のち平凡社ライブラリー)で読んだ。何を理解できたわけではないが、若きヘーゲルの精神のデモーニッシュな奔騰を感じた。
 その後、分かりやすい日本語訳を目指したという長谷川宏訳によっても、『精神現象学』(作品社)を読んだが、翻訳の善し悪しは別にして、弁証法という否定の論理学の躍動感、現に今、思索されつつあるダイナミズムという点では樫山訳に軍配があがってしまう。
 バタイユは講義風な理解ではない。真摯ではあるが、あくまでバタイユに引き付けた感受をしていたと感じる。

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← ジョルジュ・バタイユ 著『有罪者 無神学大全』(江澤 健一郎 訳 河出文庫) 新訳 「鋭利な文体と最新研究をふまえた膨大な訳注でよみがえるおそるべき断章群が「神なき神秘」を到来させるとか。

 以下、本書を読んでの感想ではなく、本書から印象的だった断章(日記)を幾つか転記する(別に本書のエッセンスが下記の文だという意味ではない):

 

夜のなかで、私は自分自身から解き放たれた姿を想像する。高い山がそびえ立ち、凍てつく風がうなり声を上げている。風、寒さ、暗闇から守ってくれるものはなにもない。私は、果てしない坂道をよじ登り、ぐらついてしまう。足下では、底なしの姿をした虚空が口を開けている。私はこの虚空であり、そして同時に山頂、つまり夜が隠し、そして今は完全に現れている山頂だ。私の心は、不明瞭な吐き気のように、この夜のなかに覆い隠されている。日の出とともに自分が死ぬことが、私には分かっているのだ。(p.125)

 今日、私のまわりに存在しているのものは、数時間後には消え去るかもしれない。少なくとも私は、この夢のような場所から自分の身体を遠ざけることができるだろう。しかし、秘められた意味で満ちた世界、つまり窓、木、押し入れの扉を、不安を感じずには見つめられない世界で、こうして動き回る必然性が私にはあるのだ。これほどまでに美しい必然性が、ロールの運命に刻み込まれていたように、私にも刻み込まれていたのである。彼女も私も、この世界がわれわれのまわりに形作られるために、なにもしたりはしなかった(あるいは、ほんのわずかのことしか)。この世界は、霧が少しずつ晴れていったときに、おのずと現れたのである。その世界は、夢に似ているのに劣らず、災厄に似ていた。なぜなら、美を美として求める人は、このような世界にはけっして入っていかないからだ。狂気、苦行、憎悪、不安、恐怖による支配が避けがたく、愛はあまりにも美しくあらねばならぬため、入り口まできている死が笑うべきものに思える。窓、木、押し入れの扉は、心を引き裂く動きと破壊を表していなければ、なんでもないものである。(p.360)

 そしてまた、私の意志は、夜を貫く叫び声のようになるべきだ。私から湧き出る叫び声が、私をどこへ連れて行こうとも、それは重要ではない……。どんな説明も惨めだ。間違いに間違いを重ねるだけだ。私のなかで筆をとっているのは、すべて愛、扇情的な愛である。私が持ち上げる重みの下で、私の力は涸れはてるが、また回復する。私が抱えている真実は、叫ぶ。ゆっくりとぎこちない言葉を口にする力をもって。
 私は、その力を孤独のなかで手にしている。その孤独において、砂漠のような私の祝祭が生じる。もしあまりにも素早く他人に語りかけるなら、私にはその力がなくなるだろう。私は、説得する術を知らない、生きることしかできない。今、私は、自分の汚れを洗い流すために書いている。私は、炎ではない方法で調達するという欲望に屈したのだ。だが、私は書き続ける。じっと待ちながら書く文章によって、たとえさらに苦しむことになろうとも、私は到達するだろう。忍耐強くなるだろう。私のなかでは、すべてが私よりも強くなるのだ。(p.408)


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