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2018/04/19

『フェルディドゥルケ』に「カハマルカの惨劇」に唖然

 雨が上がったので、庭を見て回った……案の定、つい先日、草むしりしたばかりなのに、雑草が水を得た雑草のごとくに生き生き。ちょっとだけよのつもりで、目立つ雑草を毟ったのが、気が付くと30分以上も素手で草むしり。指先が泥だらけになる。

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← ジャレド・ダイアモンド【著】『銃・病原菌・鉄〈上〉―一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』(倉骨 彰【訳】 草思社文庫)

 卓上のカレンダー、欲しいな。毎年、年末になると、誰かくれないかと期待するけど、ありきたりのカレンダーばかり。なんとなく、買うのが嫌なのだ。気が付くと、もう、四月も半ばを過ぎてしまった。また年末に期待だな。
 思い返すと、自分でカレンダーを買ったのは、もはや十年前。ヌードのカレンダーを買ったっけ。未だに壁に掛かっている。

 ジャレド・ダイアモンド著の『銃・病原菌・鉄〈上〉―一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』をようやく手にした。車中での待機中の楽しみに読んでいる。 十数年前、図書館の書庫で見つけ、唾を付けておいたのだが(⬅ 比喩)、チャンスを逸してしまった。遅ればせながら、今日から読む。プロローグを読んでいるだけでも好著だと感じさせる。

 昨日は、「1532年11月16日が旧世界と新世界が出会った劇的な瞬間」の場面を読んだ。「スペインの将軍ピサロがペルーの皇帝アタワルパをカハマルカで捕らえ、ここに神聖ローマ帝国カール5世であってスペイン王カルロス1世の帝国が、アメリカ大陸最大の王国インカを壊滅させていく端緒が開かれた。「カハマルカの惨劇」と呼ばれる」もの。僅かな手勢のスペイン人たちが何万人ものペルーの先住民を圧倒した惨状。息を呑むばかり(以下、「1361夜『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド松岡正剛の千夜千冊」より):
 

ピサロがアタワルパ率いるインディオたちを次から次へと破壊していったのは、なぜだったのか。獰猛だったからなのか。それもある。キリスト教社会を広げたかったからなのか。金銀財宝がほしかったからなのか。それもある。しかし、それだけでは南米の文明がかくもあっけなく壊滅していった理由がわからない。
 そこには三つの「文明の利器」が関与した。ひとつは鉄製の武器、ひとつは銃、そしてもうひとつは病原菌だった。

 月に一度の通院。内科。血圧(だけ)は、良好。今日は血糖値を測らなかった。体重を減らさないといけない。一昨年の六月から通い始め、昨夏、突然、体重が増えた。その体重も、昨年春程度に戻った。あくまで昨春にであって、健全な体重に戻ったわけじゃない。道ははるか。まるで先が見えない。

 道徳が正式な科目になった。一方で、政権(特に右)は、近年、学費など教育負担の軽減に熱心。何かきな臭い。要は、国が学費などを支援するから、道徳は国の押しつけに従えってこと。教育費(学費)の軽減化の対価は大きいことを覚悟したほうがいいかもしれない。

新潟県の米山知事、辞職の意向固める 女性問題で:朝日新聞デジタル」なるニュースが。
 援助交際が報じられたことで辞職を決意したようだ。カネの遣り取りはあっても交際のつもりだったようだが、女性は売春のつもりだったのだろう。あるいは、東電の策略かなんて根拠のない疑念が浮かぶのだが、それは今は封印である。
 このことで、新しい知事が誕生し、原発が再稼働となったら、世の中真っ暗だ。福島原発の事故(?)の真相は未だに明らかになっていない中、国や電力会社はどんどん再稼働へと突っ走る。不幸の極みだ。

 一方、「財務省:福田次官が辞意表明 セクハラ発言疑惑 - 毎日新聞」というニュースも相前後して。
 こちらは、セクハラ・パワハラなので、当然のことであり、セクハラに鈍感な連中が辞めていくのは望ましいことだろう。できれば、同じくセクハラにも鈍感な麻生財務相にも政界から消え去ってほしいものだ。一刻も早く!
 

160713

← ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ 著『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳 西成彦 編 島田雅彦 巻末エッセイ  平凡社ライブラリー) 「異端の亡命作家にして現代の最も前衛的な作家ゴンブローヴィッチの主著。成熟と若さという相反するものへの人間の希求を、グロテスクともいえる破格の文体で描く20世紀の奇書」とか。

 ポーランドの作家ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ 著の『フェルディドゥルケ』を読了した。
 自分には、まったく初の作家。初めて読む作家(の作品)という意味もあるが、それ以上に、従前読んできた大方の作家とはまるで異質な作家だという意味もある。
 あるいは、日本でいえば太宰治的な、文壇からは下手すると厄介者というか、鼻つまみ者扱いされる範疇の作家かもしれない。

 とにかく、(自分には)ぶっ飛んでいるというか、下手するとグロテスクな作風とも感じられるし、文学が真実を描くものだとすると、旧来の作家が見逃すか無視するか、観てみぬふりをしてやり過ごすような場面に執拗にこだわる作家だと感じた。
 本書には、訳者あとがきがあるのは不思議でないとして、さらに、「世界の文学」版訳者解説、作家自身によるブエノスアイレス版序文、あるいはフェルディドゥルキスト(要はこの作品にぞっこんなファン)への作家からの手紙、監修した西成彦による「解説ー非国民作家へのエクソダス」、巻末エッセイとして、昨夏の島田雅彦による「不服従の手引き」までが付されている。
 この辺りの付録などが非常に参考になる。

 普通は、こうした後書きは最後に読むのがいいのだろうが、ちょっと読んで肌が合わないと感じた人は、ゴンブローヴィッチによる序文を含め、付録群を読むのは(自分としては)お勧めである。
 あるいは、本作品の第四章である、「『子供で裏うちされたフィリードル』の前置き」は、作家(語り手)の本作品を創造する意図や姿勢を自らが説明を試みていて、短い章でもあるし、最初に読んでもいいかもしれない。
 ただし、あくまで最初の何頁(何十頁)かを読んで、拒絶反応を覚えてしまった方へのアドバイス(?)だと思ってほしい。
 人によっては、ドツボに嵌るかもしれない。ご用心。

「全く未知の作家。書店で見かけて。ポーランドの作家ってのも初めてか…な?」なんて過日、書いたけど、こんな大物の存在を亡失していた。スタニスワフ・レムである。彼の本は何冊か読んでいる
 さらに、若いころに読んだシェンキェーヴィチの『クォ・ヴァディス(Quo Vadis)』は、逸するわけにいかない。『闇の奥』の作家ジョゼフ・コンラッドは、イギリスの小説家だが、父親は没落したシュラフタ(ポーランド貴族)の小地主で、出身地の土壌は彼の作風の土台にもなっているようだ。

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