亜鉛色の空にも息づく命
← ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ 著『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳 西成彦 編 島田雅彦 巻末エッセイ 平凡社ライブラリー) 「異端の亡命作家にして現代の最も前衛的な作家ゴンブローヴィッチの主著。成熟と若さという相反するものへの人間の希求を、グロテスクともいえる破格の文体で描く20世紀の奇書」とか。全く未知の作家。書店で見かけて。ポーランドの作家ってのも初めてか…な?
→ 富山市の環水公園と岩瀬浜とを往復する遊覧船は、夜も。
「宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス」の中の「屈折率」(「心象スケッチ 春と修羅」参照)を読んでの小生の感想:
鉱物の手触りや色合いに知悉していないと、咄嗟には思い浮かばない表現ではある。
でも、そんなことが問題なのではない!何か茫漠としたような、前途遼遠たることに初めから溜め息付いているような、不思議な感じが漂う。
亜鉛の雲へ向わなくたって、足下の、あるいは頭上の森や土や空や川を仔細に眺め入るなら、それでもう、謎と夢と不思議とが無尽蔵に埋まっている、沈黙の声を発しているではないか。
青春の旅路に出ようという矢先に、賢治の感性は既に不可思議の領野は遠きに求めなくとも、足下にこそあると強く嗅ぎ取っていたのではなかろうか。
けれど若く滾る血は前へ前へと急きたてる。
足枷を嵌められつつ前進する?!
これって、ある意味、天才的な感性の悲劇?
← 堀 秀道 著『鉱物 人と文化をめぐる物語』 (ちくま学芸文庫) 「鉱物の深遠にして不思議な真実が、歴史と芸術をめぐり次々と披瀝される」ってことを楽しむよ。宮沢賢治ってわけにはいかないけど、鉱物好き。時間の結晶。本書、昔、違う版で読んだかもしれない。鉱物の写真が少ないのが残念。
真空溶媒融銅はまだ眩〔くら〕めかず
白いハロウも燃えたたず
地平線ばかり明るくなったり陰〔かげ〕ったり
はんぶん溶けたり澱んだり
しきりにさっきからゆれてゐる
おれはあたらしくてパリパリの
銀杏〔いてふ〕なみきをくぐってゆく
その一本の水平なえだに
りっぱな硝子のわかものが
もうたいてい三角にかはって
そらをすきとほしてぶらさがってゐる
けれどもこれはもちろん
そんなにふしぎなことでもない
おれはやっぱり口笛をふいて
大またにあるいてゆくだけだ
いてふの葉ならみんな青い
冴えかへってふるえてゐる
いまやそこらはalcohol瓶のなかのけしき
白い輝雲〔きうん〕のあちこちが切れて
あの永久の海蒼〔かいさう〕がのぞきでてゐる
それから新鮮なそらの海鼠〔なまこ〕の匂
ところがおれはあんまりステッキをふりすぎた
こんなににはかに木がなくなって
眩ゆい芝生〔しばふ〕がいっぱいいっぱいにひらけるのは
さうとも 銀杏並樹〔いてふなみき〕なら
もう二哩もうしろになり
野の緑青〔ろくせう〕の縞のなかで
あさの練兵をやってゐる
うらうら湧きあがる昧爽〔まいさう〕のよろこび
氷ひばりも啼いてゐる
そのすきとほったきれいななみは
そらのぜんたいにさへ
かなりの影〔えい〕きやうをあたへるのだ
すなはち雲がだんだんあをい虚空に融けて
たうたういまは
ころころまるめられたパラフヰンの團子〔だんご〕になって
ぽっかりぽっかりしづかにうかぶ
地平線はしきりにゆすれ
むかふを鼻のあかい灰いろの紳士が
うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて
あるいてゐることはじつに明らかだ
(宮沢賢治「心象スケッチ 春と修羅」より)
→ (たぶん)キンモクセイ。開花の芽吹き? 新芽?
踏みつけにしようと思えば踏めるから、動物の放縦に逃げることも出来ない、だから、植物は弱い…。毎年のように植物は我々の目の前で、芽吹き、咲き、萌え、絢爛たる光景を現出し、やがて枯れていったり、萎んで目立たなくなったりする。命の儚さを勝手に思い入れしてみたりする…。
けれど、植物のことをいろいろ調べると、我々の感傷や思い入れを他所に、結構、したたかで逞しい生命力を持っているということをつくづくと感じさせられる。
(拙稿「ツツジの宇宙」より)
← 馬酔木。新芽?
たとえ、踏まれ萎み窶れ腐り土に返っても、それは束の間の急速の時に過ぎず、やがては次の世代の植物達の滋養となって吸収され取り込まれ形となり、つまりは蘇る。死と生との循環を日々、身を以って、われわれに教えてくれているかのようだ。
今、生きているものもやがては死ぬ。須臾(しゅゆ)の時を生きているに過ぎない。命の讃歌。命を謳歌すること。命とは生きていることというより、生成と衰滅の繰り替えしなのかもしれない。
(拙稿「ツツジの宇宙」より)
→ キウイフルーツ。若葉?
風に舞う埃だって、やがては時を経る中で、何某かの形を得るに至るのだろう。塵芥であるとは、モノであるとは、形を得るまでの束の間の自由の時、慰安の時を満喫している、モノの仮初の姿なのかもしれない。
生命とは、どこかに偶さか蠢く何かなのではなく、宇宙に偏在する夢のようなもの。
(拙稿「ツツジの宇宙」より)
← 方々にムスカリの群生。数年前に苗を植えたら、勝手にどんどん繁殖。一年草じゃ嫌だという方にはドクダミ共々お勧め。
ツツジやパンジーを際立たせる滴る緑の深い闇に、何か禍禍しいような、毒々しいような危険の予感を覚えてしまうのも、生きていることの土台としての大地、否、地球、否、宇宙の震撼たる沈黙を予感せざるを得ないからだろうか。
ツツジ。つつじ。躑躅。漢字でツツジを躑躅と表記する時、命の底の宇宙の豊穣さと永遠の沈黙を予感せずには居られないのだ。
だから、春は憂鬱なのかもしれない。そう、あまりに重苦しすぎて。
(拙稿「ツツジの宇宙」より)
→ 栗の木。新芽?
「宮沢賢治…若き日も春と修羅との旅にあり」
(以下の一文は、「色のことまさぐるほどに奥深し」にて引用した、堀 秀道著『宮沢賢治はなぜ石が好きになったのか』(どうぶつ社)より)
人類の文化は古代にさかのぼるほど、石の影響をつよくうけている。石器時代とうことばもあるくらいである。従来の歴史学、文化史の研究は一方的にすぎる傾向がみられたと思う。石をあつかっても、人間が石を利用したという面しかみていない。石が人間いや人類にどのように影響をあたえてきたかという側面をみる努力が必ずしも十分であったといえない。
← 毎年、庭のあちこちに思いがけない草木が育つ。庭の入り口付近。椿かな。カエデなども、勝手に方々に生えてくる。庭、放っておけば、杉やカエデ、梅の木などの群生……籔に成り果てるだろう。
寒い。四月上旬なのに。入浴したいけど、我が家は寒い。余儀なく、銭湯へ。暖かいし、広い。それはそれでいいんだけど、今頃になって銭湯へ行く羽目になるとは思わなかった。
姪と姪っ子が入学の挨拶に来た。二人とも可愛い! 入学祝のお礼(返礼)を持って。若いなー。これからもっと輝くよね。
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