富山藩主前田利保と種痘
← ヴォルテール 著『哲学書簡』(林 達夫 訳 岩波文庫) 「亡命先のイギリスから故国の友人にあてた書簡形式のこの作品は,イギリスにおける信教の自由・民主的な議会政治への讃美に始まり,哲学,科学,文芸等の考察を通してフランス旧体制の愚昧と迷妄を痛烈に批判.啓蒙運動の引き金となった思想文学的記念碑」作品だとか。
風は冷たく、やや強かったけど、晴れていたので、バイクでミニツーリング。
二か月間、与謝野晶子版の「源氏物語」を読むのに費やされたので、他の本はあまり読めなかったこともあり、本の購入を控えてきた。電気代も来月は減ることだし、久しぶりにまとめ買い。
と云いつつ、自費出版した本の売れ行きを確かめる目的がメインだったのだが、あまり芳しくなかった。
過日読了したヴォルテール著の『哲学書簡』。ある日、車中で読んでいたら、種痘というか、痘瘡の話題が出ていた。
「私の知る所では、支那人は百年前からこの風習を実施している。世界でいちばん賢明で、いちばん高い文化を持っていると思われている国民の実例とあっては、これはすばらしい前例ではないか。本当の事を言うと、支那人はちがったやり方を用いている。彼らは切り傷をつくらない。嗅ぎ煙草と同じように鼻から天然痘を吸い込ませる。この方法の方がずっと気分がよくて、それでいて効果は同じである。そしてこの話も、もしフランスで種痘が実施されていたら、多数の人命が救われていたであろう事を裏付けるものである。」(「インフルエンザ経鼻ワクチンとヴォルテール『哲学書簡』 『犬の鼻先におなら』 - 楽天ブログ」より転記)
こうした種痘の歴史については、「種痘 - Wikipedia」などを参照する。
日本には19世紀の初頭からポツポツ伝わり実践されてきたようだ。実は、種痘の項をスマホで調べたら、富山藩の藩主の話題に遭遇したのである。
では、その我が富山県……富山藩はどうか。
すると、「種痘 - Wikipedia」に、以下のような記述が見いだされる:
富山藩では、1840年代後半、前藩主である前田利保が種痘を聞くに及び、藩医の横地元丈を江戸に派遣、情報収集と種痘技術の習得を行わせた。1850年(嘉永3年)、富山に戻った横地元丈は自分の子供に接種、翌年、藩内で天然痘が藩内で猛威を振るうと、前田利保自ら種痘の有効性を説き普及に努めた。

→ 前田利保とされる画像 (画像は、「前田利保 - Wikipedia」より)
前藩主である前田利保が、とある。
「前田利保 - Wikipedia」によると、越中富山藩の第10代藩主で、「当時、福岡藩主黒田斉清とともに博物大名として知られた」という。
「相次ぐ凶作などで藩財政が困窮していたため、産物方を設置して陶器製造業、薬草栽培などの産業を奨励して財務再建を図」り、「特に薬草栽培には力を入れた」。
「領内最高峰の金剛堂山を登山」し、あるいは「藩内の流通を統制し、文武を奨励、相次いでいた外国船襲来に備えて海防を強化するなどした」とも。
「弘化3年(1846年)10月20日、病気を理由に六男の利友に家督を譲って隠居」後、いよいよ種痘という当時としては先端医療(治療法)の普及に乗り出したわけである。
当時の日本では、かなり開明的な藩主だったようだ。
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