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2018/01/27

『顔面考』の周辺

Tismihokoyagimedium

→ 八木美穂子作「カトリックのサレジオ修道会が経営する出版社の依頼。聖人特集ムックでエッセイと挿画を寄稿し」たとのこと。ロウソクの焔が、服を脱ごうとする女性の裸像に見えるのは、作者の意図的なものなのだろうなー。 (画像は、「東京イラストレーターズソサエティ (TIS) 作家 八木美穂子」より) 拙稿「イラストレーター八木美穂子ミニ特集」参照。

 日中でも零下なんて、久しぶり? 記憶にない。今日の降雪はたいしたことはなかったのだが、いかんせん、根雪が融けない、車で踏み固められて、カチンカチン。走ると、滑る滑る、横滑りする。

 さすがに今日は忙しくて、本を読む暇がない。嬉しい悲鳴?

 富山市では(も)、アパートの新築ラッシュ。その一方で、空き室の多い古いアパートがたくさん。新しいアパートも、数年で中古になっちゃって、空き室だらけになるのが目に見えている。相続対策なのか、住む人のいなくなった家を潰して、あるいは所有する空き地にアパートを建てれば、手っ取り早く収入になりますよって、不動産屋さんか銀行にそそのかされている?

 富山市の人口はせいぜい横ばい。若い人が増えているという話も聞かない。高校も学区が整理統合という話が出ているほど。新しい大学を招致、という話もない。そんな中で新築ラッシュって、なんか変だ。

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← 春日武彦 著『顔面考』(河出文庫) 「観相学、替え玉妄想、ドッペルゲンガー、生来性犯罪者、醜形恐怖、人面犬・人面疽、整形手術、マンガやミステリに描かれた顔」など、話題が豊富。「博覧強記の精神科医が、比類なき視座から綴ってみせた、前人未到の〈顔〉論にして、世紀の奇書」だとか。

 昨夜は、丑三つ時近くに帰宅。案の定、出勤前には除雪してあった庭に、新たに25センチほどの新雪。構わずに、強引に車で突っ込んで行ったら、何とか所定の駐車場に停めることができた(何年か前、同じように強引に突っ込んで、スタッグしたことがある)。

……でも、そのまま家に入る気になれず、雪掻き開始。マスクもせずに。仕事着のままで。
 スノーダンプなどを使って、一時間半ほどの除雪作業。腹ペコだったんだけどね。

 なんとか、けりをつけて家に。それから、軽食後、洗濯。あ、その前に、電気代の請求書を見て卒倒しそうになった。11月の5倍、12月の2倍。昨年の倍ペースだ。月収の5分の1が電気代。死ぬ!

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→ 厳しい朝。玄関を開けると、こんな光景が。今は小雪だけど……。案の定、その後も十センチほど積もった。

 春日武彦 著の『顔面考』を読み始めている。車中で気軽に読めるかなと思っていたのだが、これがなかなか話題が多岐に渡り、時に考えさせることもあって、本を読む手が止まりがち。
 家で読もうかと、一旦、家に持ち帰ったのだが、どうせ休み休み読むんだったら、車中での待機中にふさわしいと、やはり、車に持ち込んで、随時読んでいくことにする。
 まだ読み止しなので、参考に目次を示しておく:

第一章「隠された顔、顕れた顔」
第二章「ほのめかす顔、物語る顔」
第三章「生き写しの顔、まがいものの顔」
第四章「おぞましい顔、あでやかな顔」
第五章「顔のようなもの、顔であったもの」

 本書を読んでの感想は後日にするとして、ここでは、以前、書いた美と醜を巡る雑想(「美と醜と相身互いの深情け」より)を示しておく。「これまでどれほど美や善が滑稽と皮肉と嘲笑の対象になってきたことか!」とした上で:
 
 それはともかく、美は常に一旦、描かれ示されると、その瞬間から古典になる。昇格されるのか棚上げなのか分からないが、人間はどんな美であっても満足ができないのが宿命らしい。
 この世は美を嘲笑うかのような醜に満ち満ちている。醜の海に美は島として浮んでいるともいえるのかもしれない(決して大陸ではない!)。
 且つ、人間は美に惹かれ美を是としながらも醜に一層、惹かれて行く。醜の海の波は美という島の海岸線を容赦なく波打っている。津波さえ折に触れ襲い来る。
 美の島で安閑としていたいと思っていても、気がついたなら足元まで醜の誘惑の手が、波がひたひたと押し寄せている。
 それどころか、人は醜の海へと漕ぎ出そうとする。もっと美をなのか、もっと醜をなのかは分からないが、海の果てには一層の快感、一層輝きに満ちた宝物が浮んでいる、埋まっている、漂っている、釣り上げられるのを待っている。
 美を一層、心に肉に完璧なものとして、不壊のものとして、感受不能なまでに眩しいものとして感じるには、既成の美では、物足りないのである。醜の波に浚われ、逆巻く波に呑み込まれ、醜という大海の真っ只中にあってさえも、身を醜と悪と病と罪とに晒して、それでもなおその果てにあるやも知れない美を肉の犠牲を対価として払って自らが体得したものでないとならない。他の誰が何と言おうと、自分が認めるわけにはいかない。
 よって、美は醜の海でのみ常に見出されるという、歴史が常に繰り返されるわけである。
 古典とは美の安置場所のことなのだろうか。美は常にその果てに見出される、永遠のロマンの対象なのだろうか。
 きっと、今後も、新たに見出される美は、世の大方の諸賢には顰蹙を買う、醜い、常識を欠いた、喧騒に満ちた、混沌たる世界として現出するのだろう。

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