宮沢賢治「ポラーノの広場」再び
→ 題名不詳「小林たかゆき お絵かきチャンピオン」より。
私は融け去っていく。内側から崩壊していく。崩れ去って原形を忘れ、この宇宙の肺に浸潤していく。私は偏在するのだ。遠い時の彼方の孔子やキリストの吸い、吐いた息の分子を、今、生きて空気を吸うごとに必ず幾許かを吸い込むように、私はどこにも存在するようになる。私の孤独は、宇宙に満遍なく分かち与えられる。宇宙の素粒子の一つ一つに悲しみの傷が刻まれる。
そう、私は死ぬことはないのだ。仮に死んでも、それは宇宙に偏在するための相転移というささやかなエピソードに過ぎないのだ。
沈黙というのは、薄闇の中に灯る蝋燭の焔という命の揺らめきをじっと息を殺して眺め入るようなものだ。ひたうらに浸って、思わず知らず興奮し、息を弾ませた挙げ句、蝋燭の焔を吹き消してはならないのだろう。
そう、じっと、焔の燃える様を眺め、蝋燭の燃え尽きていくのを看取る。
← 宮沢賢治/著『ポラーノの広場』(新潮文庫)
宮沢賢治作の『ポラーノの広場』を読了した。
本書は二度目。
今更、下手な感想など野暮だろう。ただ、本書に寄せての、中沢新一氏の「贈与する人」という一稿が素晴らしかったことと、天沢退二郎氏による解説が改めて感銘深いものだったことはメモしておきたい。
せっかくなので、天沢退二郎氏による解説の末尾に掲げられた下記の詩を本ブログでも載せておきたい。
「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態)/『春と修羅 第二集』」からの抜粋である。
パート三あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
……蜂はどいつもみんな小さなオルガンだ……
(「「種山ヶ原」詩碑」参照。)
→ 題名不詳「小林たかゆき お絵かきチャンピオン」より。
それは、まるで自分の命が静謐なる闇の中で密やかに滾っているようでもある。熱く静かに、静かに熱く、命は燃え、息が弾む。メビウスの輪のある面に沿って指をそっと滑らせていく、付かず離れずに。
すると、いつしかまるで違う世界にいる自分に気が付く。見慣れないはずの、初めての世界。なのに慕わしく懐かしい世界。五感を研ぎ澄まい感じ続けるという沈黙の営みを通じて、人は自分の世界を広げ深めていくのだろう。何も殊更に声を上げる必要などないのだ。
気が付けば蝋燭の火も落ちている。命を燃やし尽くして、無様な姿を晒している。けれど、冷たい闇の海の底にあって、己の涸れた心に真珠にも似た小さな命が生まれていることに気付く。蝋燭の焔の生まれ変わり?
そんなことはどうでもいい。大切なのは、官能に浸るとは、何時か何処かで生まれた魂の命の焔を静かに何処の誰とも知らない何者かに譲り渡していく営みだということに気付くことだ。感じるとは、自分がその絆そのものであることの証明なのではなかろうか。
宮沢賢治関連拙稿:
「宮沢賢治…若き日も春と修羅との旅にあり」
「賢治の俳句…花はみな四方に贈りて菊日和」
「宮沢賢治から昇亭北寿へ飛びます!」
「宮沢賢治、地図の裏に未発表詩」
「島崎藤村とラスキンと雲と…少し賢治」」
「忙中 賢治あり」
(なお、本稿中の雑文は、拙稿「蝋燭の焔に浮かぶもの」より一部手直しの上、抜粋。)
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