孤独ではなく孤立
二週間に一度の連休。読むぞって思っていたのに、寝てばかり。本を手にすると眠たくなる。でも、久しぶりにリルケの「マルテの手記」を読んだから、まあ、充実していたと思いたい。昨日、畑や庭仕事に頑張り過ぎたようだ。
← 昨日(金曜日)、開花を知った花(ユリ?)、今朝……たった今、見てきたら一挙に群生状態に。これから次々に開花していきそう。小雨に一層あでやかだ。
この頃、我が家の軒下に住み込んだらしい、ノラの母子猫たちに、さりげなく(?)エサをやるようになってきている。まずい兆候だ。ホント、母猫、痩せてる。元気がない。野生には鳥を含めエサをやらない主義なんだが……。
過日、茶の間の出窓の網戸に張り付いていたヤモリ。今日見たら、網戸の下のほうでミイラ化しているのを発見。可哀そうに。
→ 我が家の蔵には、田植定規(じょうぎ)という道具が今も鎮座している。ほんの十年ほど前までは現役だった。父と一緒に泥汚れを洗ったっけ。水田に目印を付けた後、手植え。内緒だけど、田植えする際、裸足で。水虫で悩んでいたけど、あっさり治った。水虫菌の天下だった足の裏が、田んぼで初めて出会った天敵の菌類に攻撃されたんだとか。最初は、じくじくの水虫足のまま、田んぼに入るのは正直、怖かった!(画像は、「田植え(昭和30~40年代):農林水産省」より)
そう、リルケ作の『マルテの手記』を久しぶりに読み返したのだ。
初めて読んだのは、何かの文学全集に入っていたものだったという遠い記憶がある。
二度目が、今、手にしているすっかり変色した古びた新潮文庫版で。
二度目に読んだ時も、どれほど味読できたか覚束なかった。では、今回は?
詩人の孤独な魂を感じたとはいえる。
神と対話し、自己と対話し、パリという大都会での、何物でもない自分の漂泊の魂。
都会の孤独。群衆と雑踏の中だからこその孤独。
孤独の中でこそ、人は徹底して自らを、世界を問うことができる。生半可な答えなど要らない。
というより、孤独の境涯にあって、その人がどこまで徹底して問い得たかが、その後のその人の人生を決めるといってもいいだろう。
二度目に本作を読んだのは、小生が大学を卒業し、上京したかどうかの頃。大学で二年、留年したので、友人らはみんな卒業したか、さっさと退学したか、いずれにしろ、特に最後の一年は独りぼっちで仙台の町で暮らしていた。
卒業し上京した当初も、独りぼっち。友と言えるのは、本だけ。図書館で借りまくり、折々文庫本を買い、新刊本は買えないので、古書店をぶらついたりした。
本書も新刊で買ったのではなく、古書店だったようだ。
← ロートレアモン作『マルドロールの歌』 (栗田勇訳 角川文庫クラシックス) 小生が初読したのは、1980年刊のマルドロールの歌 (1980年) (角川文庫)だった。今日から読み始めるのも、この茶褐色のこの本。蔵の中の段ボールに収められていた本の一冊。「マルテの手記」に引き続いての、我が青春の書の再読の試みでもある。
この前後、若さもあり、アルバイト生活の中、時間だけはあって、体力任せで、世界の文学作品を片っ端から読み倒そうとしていた。
マルケスの「百年の孤独」、メルヴィルの「白鯨」、ムージルの「特性のない男」、セリーヌの「夜の果ての旅」、マンの「魔の山」、藤村の「夜明け前」などなど。その中に、「マルドロールの歌」や「マルテの手記」なども入っていたわけである。
正直、どれほど理解できたか覚束ない。上に掲げた中で、セリーヌの「夜の果ての旅」くらいが当時哀惜していたドストエフスキー作品群並みに熱中できた程度である。
自分は、決して孤独に耐えられるような人間ではない。というより、甘えっ子といったほうが的確だろう。
ただ、肉体的事情が自分を独りぼっちに追い込んでいく。否応なく。
一つは容貌であり、もう一つは、睡眠障害。十歳の時の手術で、鼻呼吸が一切できなくなった。
黙っていたら、油断したら、人前でも、口を大きく開けて、酸素不足の魚が水面で喘ぐように呼吸してしまう、ちょうどそんな光景を思い浮かべればいいだろう。
そんな惨めな姿をさらさないためには、日中、人前に居るときは、常時、口を閉じているふうを装わないといけない。映画館で数時間を過ごすなど、難行苦行である。授業もひたすら辛いだけ。
何が一番辛いって、朝、起きた時。
夜はほぼ眠れない。睡眠時無呼吸症候群という病気というか、症状があるが、小生は鼻呼吸ができないのだ。つまり、夜、自分には睡眠がありえないことになる。
朝は、疲労困憊している。骨が粉々に砕かれたかのように、体が疲弊しきっている。
起きるべき朝、自分は起きるために、一日のほぼ全精力を使い果たす。
日中は、ほとんど眠いっていない疲労と睡魔との闘いに明け暮れる。起き上がった時にはもう、自分は腑抜けになっている。昼行燈である。
そんな自分が、普通の人の日常を送れるはずがない。疲れ切って余力などないのに、まともな暮らしなど、ありようはずがなのだ。
これら二つの理由で、自分は孤独ではないとしても、孤立した中身の乏しい精神生活を余儀なくされたのである。
← リルケ/著『マルテの手記』(大山定一/訳 新潮文庫) 「青年作家マルテをパリの町の厳しい孤独と貧しさのどん底におき、生と死の不安に苦しむその精神体験を綴る詩人リルケの魂の告白」とか。
作家に限らず、創造する人間を養う孤独の中の徹底した省察と自己分析、なんてものではなく、ただただ独りぼっちの淋しい、内容空疎な時空を浪費するばかりだったのだ。
そんな人間に「マルテの手記」なんて、高嶺の花で、理解など及ぶはずはない、門前払いなのだが、そこはそれ、若さの身の程知らずで、世界の文学作品や哲学思想に挑んできたわけなのだ。
そして今、自分はここまで来てしまった以上は、筋違いであろうと、門外漢であることを承知の上で、文学の深みに嵌っていくしかないのである。
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