日本の縄文時代から中南米の現代の縄文の世へ
今日は休み。しかも、仕事も、普段なら夜半過ぎまでで、帰宅するのは夜中の二時前なのに、昨日は夜の八時過ぎには終えて帰宅した。
← イサベル・アジェンデ 著『精霊たちの家』(木村 榮一 訳 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第2集 河出書房新社) 「不思議な力をもつ少女クラーラは、美しい姉の死から9年間の沈黙の後、姉の婚約者と結婚し、精霊たちが見守る館で暮らしはじめる。三世代の女たちの運命を描く、驚異と幻想に満ちた傑作」だとか。
どうも、リズムが狂うと返って気が抜けるようで、普通の人のように朝まで寝て、一日をフルに使えるとなると、なんだか途方に暮れるような感がある。
いつもなら、気が付けば昼下がりで、あとは夕方前に外仕事をしてもう、夜なのに、午前中グズグズしていても、まだ昼前。どうしたらいい?って状態に。
なれないと、ホント、リズムが狂う。
それでも、延々と読んできた『ユリイカ 2017年4月臨時増刊号 総特集◎縄文 JOMON』を読了した。
論文集のようなものなので、日に一つか二つの論考を読むとどめ、縄文への理解を多少でも深め、イメージを膨らませようとしてきた。
実際、収穫はあった。折々、思い出すようにして得てきた縄文の情報がいかに浅くて断片的か、そして実際の研究が進んでいるかを思い知らされた。
下記するように、幾度となくこれまで本書を巡って記事を仕立ててきたが、すでに十年二十年前に書籍や写真などで世に知らされているはずの縄文土器や土偶についても、見たことがない、あるいは、見たのに右の耳から左の耳を素通りしていったらしい、素晴らしい土器土偶の写真がいっぱいあった。
縄文も、縄文時代の人たちが自らの体中に入れ墨をしていることとの相関をもっと考えるべきだと、改めて突き付けられた気がする。
我々が勝手に呪術的とか呼称する世界が、彼らには、リアルな世界だったのだということの重みは、想像をはるかに超えて痛切なものがあったのだ。
本書に続いて、ある意味タイムリーとも思える、イサベル・アジェンデ 著『精霊たちの家』を読み始めた。
数頁どころか、一頁も読まないうちに、この小説の並外れた力を感じた。あるいはマルケスの「百年の孤独」に匹敵するかも、とさえ。体力気力があったころなら、夢中になっただろう。ま、あわてず騒がずじっくり読んでいくよ。もっと早く読んでおきたい本だったと、つくづく。
さてでは、何がタイムリーかというと、冒頭の数十頁を読んだだけなのだが、マルケスの『百年の孤独』もだが、中南米の文学世界は、ある意味、日本でいう縄文的な世界が濃厚に残り、同時に且つ、近代だと自称する日本の現代と同時並行で進みつつある世界なのだという、とんでもない世界が描かれていると感じるからだ。日本の縄文時代から、現代の縄文のような中南米へ。
← 『ユリイカ 2017年4月臨時増刊号 総特集◎縄文 JOMON』(青土社)
以下、『ユリイカ 2017年4月臨時増刊号 総特集◎縄文 JOMON』を読んで、その都度、書いてきた感想などを抜粋しておく:
「クロボク土は縄文人の文化遺産」:
縄文人は、自然と和して生きた、などと牧歌的な、しかし、根拠のない、勝手な思い入ればかりが先走りがちな風潮が一部で見受けられるが、決してそんなことはなかったと分かる。
人類は、自然の脅威と戦い、その中で懸命に生きるすべを探ってきたのだ。縄文人にしても、例外のはずはない。縄文人が1万年をかけて森などを焼き払い、野原にし、ゼンマイなどの食用の植物を<採集>してきたのだ。農耕とはいえないにしても、意図的に自然を都合のいいように作り変えてきた、その現実を思うべきだろう。
縄文土器も、芸術性を忖度する前に、生きるための糧を得るための道具性をまずはとことん理解すべきだのだろう。
「「先史のかたち―連鎖する土器群」を見たい」:
単に自分が無知不勉強なだけなのだが、『ユリイカ 2017年4月臨時増刊号 総特集◎縄文 JOMON』の中の、「東北大学考古資料展示「先史のかたち―連鎖する土器群... イベント 東北大学 -TOHOKU UNIVERSITY-」を紹介する記事の中に載っている縄文土器の数々を見て、火焔土器に劣らぬユニークな形象に興味を掻き立てられた。
いわゆる急須から取っ手を外したような形に限らず、縄文の長き世に於いて、様々な形が試行錯誤されたことを痛感させられた。
「群盲 縄文という巨象を撫でる」:
専門家が所謂火焔式土器について多くを語らないのには理由があって、そもそも何ゆえあんな形なのか分かっていなかったからでもあるらしい。縄文時代という長い、長過ぎる時代の全貌は今もって捉えられてはいない。上掲の永井氏によると、縄文時代中期の土鍋の中で、火焔土器は、文様の規格性という点からいえば、むしろ火焔型土器は、他の土器よりも画一的ですらある、という。
「読書と庭づくりの日々」:
あの火焔土器を見るだけでも、発想の異質さ強靭さ土俗性は想像以上のものがあるだろう。ただし、森や山、川、海、大地と親和して生きていたなどと縄文時代を理想化するのは、違うと思う。
列島にせいぜい数万か数十万の人たちが生きていた時代なんて、自然に慣れ親しむしか生きられるはずがなかったことをもっと強く認識すべきだと思う。地震も噴火も、雨が降れば洪水は当たり前だっただろうし、風土病の類なども、とにかく何もかもが恐怖と畏怖の対象だったはずだ。
生き物は闇の自然の深さの中で、恐れ戦くしかなかっただろう。仲間意識も強烈だったろう。リーダーは男だったのか、母親だったのか分からないが、そういったリーダーには絶対服従だっただろう。祭祀はどのようなものだったのだろう。人が生贄に供されることはなかったのか。
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