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2017/04/15

草むしり作業などの合間に読書

 本日は晴天なり。外出日和。でも、生憎、吾輩は庭仕事。病院通いに草むしり。合間に読書。充実している?
 
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← 釜谷武志著『陶淵明』(ビギナーズ・クラシックス 中国の古典  イラスト/デザイン 谷口広樹 角川文庫) 「帰りなん、いざ…。そう言って田園に帰った詩人が残した魂の叫び!」だとか。

 釜谷武志著の『陶淵明』を読み始めた。
 折々だが、こうした中国の古典を読む。漢詩が好き。読み下し文がないと読めるわけじゃない。その意味で、読み下し文を呈してくれる学者に感謝しないといけない。漢詩に魅力を感じたのは、高校時代、漢文の授業で。決定打は、中島敦の山月記かもしれない。

 漢詩人では、蘇 軾(蘇東坡)が一番好き。学生時代や社会人に成りたての頃、漢文(漢詩)の本を暗唱しつつ、味わっていたっけ。何一つ、覚えていないけど、きっと雰囲気が好きなのだね。

 まだ数頁を読んだだけだが、冒頭から認識を改める記述が。「時に及んで当に勉励すべし歳月人を待たず」という言葉がある。吾輩も仄聞したことはある。この一文の中の「勉励」は、「刻苦勉励」に絡められ、懸命に勉強すべしと理解されている方が多い(あるいは吾輩がそう思い込んでいただけなら、ごめんなさい)。本書によると、この言葉は陶淵明の言葉。で、本書の著者によると、彼の詩の中でこの言葉(漢詩)を通じ、「わかいときにこそ、大いに楽しみ遊びなさい」と言っているのだとか。さあ、若い人よ(若くないひとも)、勉励してくださいね。

 谷崎潤一郎 著の『』を読み始めた。
 書庫をごそごそしていて再発見した本。一時期、谷崎物の文庫本は大概、読んだ。細雪を含め。確か、94年の入院の際、病室で長くて手付かずだった細雪をこの際だからと読み切ったのだった。その余勢を駆ってほかの作品もいろいろ読み返した。
 谷崎作品はどれもいいけど、最後は瘋癲老人日記になる。その前に、鍵でウオーミングアップ?!

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← 谷崎潤一郎 著『』 (中公文庫) 「妻の肉体に死をすら打ち込む男と、死に至るまで誘惑することを貞節と考える妻。性の悦楽と恐怖を限界点まで追求した問題の長篇」だって。解説が綱淵謙錠なのもいいが、本書には谷崎本人の希望で、棟方志功の板画59点が挿画されていること。これは贅沢。

 今日はひと月に一度の通院の日。内科。どうも数値が停滞気味。野菜を食べろ、もっと歩け、運動しろ、食事(カロリー)を制限しろ。アドバイスはこの一年と半年、いつも同じ。野菜は食べるように心がけているし(野菜も食べ過ぎるとカロリー過多に資する)、運動もプール通いか庭や畑などの外仕事で汗を流している。できないこと、していないことは、歩くことと、規則正しい生活(これはお医者さんに言われているわけじゃないけど)と、バランスのいい食事。徹夜仕事が週に三回あるし、規則正しい生活だけは仕事を辞めない限り、実行できない。

 よく、コメントやアドバイスで、水分の補給が大事と言いますが、その水分って、アルコールじゃないのは当然として、ジュースは? 牛乳は? お茶は? ホントに純粋に水? そのあたり、明確に指示してほしいなって思います。運動不足。吾輩の場合、プール通いを始めたし、春になると、畑や庭仕事で週に二度は汗を流します。これも運動ですよねって、専門家に確認したいです。サプリメントは気休めだって、専門書には書いてましたね。

 ミラン・クンデラ著の『笑いと忘却の書』を本日、読了した。
 若干の感想は、拙稿「クンデラの『笑いと忘却の書』に共謀罪を思う」に書いた。 以下、改めて:
 チェコの人。プラハの人。つまりカフカと同じ町に暮らした人。プラハの春を謳歌し、ロシアの傀儡政権に翻弄され、共産党政権下で、禁書の憂き目に遭い、亡命もどきの宙ぶらりんを体験。日本の作家には、どんな体験も可能であっても、外国による支配の経験は、戦後の一時期だけ。それも、天皇制の温存と引き換えに、アメリカによる間接支配(制空権をアメリカに渡し、基地を提供し、アメリカの政策に追随することを旨とすること)に甘んじることで、沖縄を除いて、占領の憂き目には遭わなかった。亡命の文学は日本には無きに等しい。

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← ミラン・クンデラ著『笑いと忘却の書』 (西永 良成訳 集英社文庫) 「党の粛清により、隣の男に貸した帽子を除いて、すべての写真から消滅した男。一枚の写真も持たずに亡命したため、薄れゆく記憶とともに、自分の過去が消えてしまうのではないかと脅え...」とか。

 米軍基地の大半が沖縄にあることで、アメリカが常に世界の中で危機感を持っていることを実感ができないでいる。井の中の蛙なのである。

 世界は、難民と亡命と移民の大潮流に飲み込まれつつある。幸いにも、難民も移民も拒否している日本は、そうした世界の現実は対岸の火事。目先が幸せで平安だったら、世界も基本的に平安で、ロシアやアメリカの代理戦争やイスラエルとアラブの争闘が起こっていても所詮、多くの人には絵空事なのである。文学において深甚な課題が扱われていても、普遍性を持つのは難しい。村上文学はどうだろうか。扱う意思はあると思うけど。性という最も人間の卑近な営みですら、世界の紛争の最中にあって、歪な相克を逃れられない海外とは事情があまりに違う。

 革命が起きたら、前の体制の遺物は消し去れてしまう。遺物も記憶すらも、忘却の海に沈んでいく。体制に馴染めなければ、心を殺すか、それができないなら、痙攣にも似た笑いで以て生き抜くしかない。もはや、笑うしかない。哄笑する身悶えをも嗤ってもらうしかない。ほかに生きるすべがないのだから。

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