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2017/03/03

日常の中の出来事

 ムッシュかまやつさんが亡くなった。ザ・スパイダース、なつかしい。彼が亡くなる前日、吾輩のための慰労会の二次会で、ザ・スパイダースの歌も歌った。吾輩は、滅多にカラオケへは行かない。この十年で二度目か。同僚に誘われて、数年ぶり。歌うのは楽しいけど、音痴なんだよね。

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← 川合玉堂「二日月」(明治40年 墨画淡彩・絹本・軸・1幅 86.4×139.0 東京国立近代美術館

 プール通い再開6回目。25プールを8往復。ほとんどがクロールだけど、苦手な平泳ぎを1往復半あまり。来週は忙しくて泳げないだろうから、今週は3回。まだ、連続しては泳げない。25メートルごとに、一休みしている。やわやわとアップしていくよ。

 これは夢の中の出来事…… あるスーパーで買い物していたら、女子中学生(か女子高生)とすれ違った。すれ違いざま、彼女は、自分の鼻を弄るような仕草を一瞬した。目は背けたままに。当てつけ。オレの醜い鼻への当てつけ。なんだって、無視して通り過ぎてくれないんだ?

 なんだって、あてこするような真似をするんだ? オレは、一瞬、屈辱と惨めさに頭の中が真っ暗になる。目の中がジンと熱くなる。周りに誰もいなければ、泣き崩れてしまいたかった。そんなわけにはいかない。まだ買い物の途中だもの。みんな済ませないと。いい年をした大人が衆人環視の下で泣きじゃくるなんて、嗤われるだけのこと。あんな当てこすりなんて、もう何十年も経験してきたこと。人の気持ちなど一切、頓着しない、見かけが全てだと、自分はまともだと思っている奴らは、平気で敢えて、相手の、そうオレの醜さをこれでもかと思い知らさせる。

 相手を踏みつけたいという欲求には勝てないのだ。そんなことは分かり切っている。保育所時代に散々、思い知らされたことだもの。誰より分かっている。でも、未だに馴れない。なんだって当てこするんだ? どうして黙って素知らぬ顔をして行き過ぎてくれない。大概の大人はそうしてくれる。内心、オレをどう思おうと、顔は、表情は他人の顔。そう、他人じゃないか。知ったこっちゃないだろう、あんたらには!

 涙を堪えつつレジを済ませる。無表情を装う。店を出た。自転車の籠に買い物を載せる。あと一歩だ。ひと漕ぎして、スーパーの敷地を出てしまえば、こっちのものだ。涙が溢れたって、風のせいにできる。埃のせいにできる。おあつらえ向きに、今は花粉症の飛び交う時期ときている。目頭が熱くて、涙が溢れそうだって、誰もおかしくは思わないさ。

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→ 川合玉堂「祝捷日(しゅくしょうび) 」(昭和17年 彩色・絹本・額・1面 58.0×72.5 東京国立美術館) 拙稿「川合玉堂の「二日月」に一目惚れ」参照のこと。

 無数の人々とすれ違う。すれ違うだけの人生。それにしても、何だって泣いてしまったんだろう。この期に及んで。いい年をして。こんな屈辱や悔しさなんて、慣れっこのはずだ。保育所を出るころには涙は枯れ果てたはずじゃないか。ボクには人生なんて、ないって、つくづくと思い知ったじゃないか。情なんてものは、ボクの胸の何処を探したって、見つからなくなって、そう、人には、この子は知恵遅れですって、先生にもお袋が言われていたって、いつだったかお袋に聞かされたっけ。

 ボクが保育所時代に学んだこと、それは生きるには、自分の情ってものを徹底して殺すってこと。そうすれば、少しは楽な人生が送れるって。そのはず、だったんだけどなー。   ……ということで、これは夢の中の話でした。
 この夢譚で、一つ大きなウソが。いうまでもなく、夢の中の話じゃなく、日常の中の出来事でした。

 ローレン グレアム/ジャン=ミシェル カンター 共著の『無限とはなにか?』を読了した。
 本書の内容案内によると「本書は、20世紀初頭に無限と集合論に挑んだ数学者、特にロシアの数学者を中心に描いている。数学的対象に対する解釈をフランスの数学者と対比させることで、モスクワ数学派の無限や連続性、集合に対する解釈の独自性が明確になっている」とか。

 本書の前半はフランスの数学界の話で、ある意味、フランスに焦点を持ってきた真っ当な数学史。
 後半こそが、本書の白眉というか、独自性を際立たせている内容だろう。
 ロシア革命そして、スターリンの登場。レーニンも、数学など分からないから、マルクス主義というか、共産党独裁政権に反する人物は圧殺していく。

 ロシア革命以後は、粛清や密告の嵐が吹き荒ぶ。革命政権の理念に反する者、特に宗教に対する弾圧は徹底的に断行された。
 本書で焦点を定められている数学者らは、讃名派と称される、ある種の神秘思想の信奉者ら。小生は学生時代は西洋哲学科に在籍していたけど(ホント、籍を置いていただけ)、讃名派なんて用語は本書で初めてお目にかかった。

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← ローレン グレアム/ジャン=ミシェル カンター 共著『無限とはなにか?  カントールの集合論からモスクワ数学派の神秘主義に至る人間ドラマ』( 吾妻 靖子訳 一灯舎)

 本書のテーマは、「無限とは何か」のはずなのだが、ロシア(などにおける)讃名派に絡めるということで、やや自分の関心からは遠いようで(実際、未知の名前が多かった)、読み通すのが辛い面もあった。

【新刊】『無限とはなにか―カントールの集合論からモスクワ数学派の神秘主義に至る人間ドラマ』一灯社 - 本が好き! Book ニュース」の説明を借りると、「19 世紀末にドイツの数学者カントールは,集合論によって無限に新たな解釈を与えたが、それと同時に様々な矛盾の存在が明らかになり、数学者達は厳しい状況に置かれたという。無限についてフランスの数学者たちが合理的解釈を試みたのに対し、モスクワ数学派は「讃名派」の教えに関連する神秘的で直観に基づいた解釈を試み、独自の進展をとげた」という。

 つまり、宗教的信念が、フランスの数学者らの合理性では躊躇するような、無限の世界の探求を可能にさせた、ともいえるわけである。

 文学も美術も音楽も、宇宙論も、そして数学も、無限とは無縁ではありえない。
 探求をとことん突き詰めていけば、遅かれ早かれ無限の穴か極か壁に突き当たる。無はきっとそこら中に口を開けて獲物…無謀なる犠牲者を待っている。

 驚くべきは、そんな蛮行に挑んだ連中がいる、ということよりも、スターリンの圧政下にあっても、そして無限の陥穽を恐れることなく、探求を続け、一定の成果を上げたという厳然たる事実があるということだろう。

 神秘主義に囚われるなんて、邪道のはずなのに、無限に定義を与えることは、神が自分(ら)に与えた使命だと考え、ひるむことなく、宗教的熱情で以て集合論に挑んだ、そして成果さえ得た、という常識人には想像を絶する世界があったのである。

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