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2017/01/05

ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎

 四日、テレビで高梨選手の年越しそばを食べて…というコメントを聴いて(見て)、今更だけど、年越しそばを食べるのを忘れていたと気付いた。明日にも食べるか…意味ないか。

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← デヴィッド・エドモンズ/ジョン・エーディナウ 著『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』 (二木 麻里 翻訳  ちくま学芸文庫) 「このすれ違いは避けられない運命だった? 二人の思想の歩み、そして大激論の真相に、ウィーン学団の人間模様やヨーロッパの歴史的背景から迫る」という内容。論議の一部は、例えば「火掻き棒事件をめぐる〈熱い〉[=厚い]記述」を参照。

 我が家は築60年以上の家。かなり建付けが危うくなっている。畳の部屋など、べこべこの畳を酔っぱらいのようにフラフラ歩いちゃうので、よろめくことも。建て替えも改築も経済的に無理。いっそのこと、車庫を作り、電気自動車を停め、車で暮らそうかと、マジに検討している。

 丑三つ時にふと目覚めて……というのも、日中、居眠りを繰り返したし、庭仕事で疲れ切ったこともあったような……さすがに夜中過ぎというか未明前の三時過ぎに呟く人って、稀だよね。淋しいような、まったりするような。

 年初から失敗は数々。先ほどもお風呂場の換気扇点けっ放しに気付いた。昨夕からずっと回っていたことになる。いつもなら、お風呂場の除湿が終わったら、すぐ止めるはずなのに。

 さすがに今朝は寒い。トイレに行ったら、吐く息が白かった。薄闇でも見える。まあ、今年は雪のない正月だったことだけでも、ありがたいと思わないと。

 昨日は、昼食(兼朝食)も夕食も、手作りの焼きそば。山盛り。今日になっても、ゲップは焼きそばのソースの香りがする!

 デヴィッド・エドモンズ/ジョン・エーディナウ 著の『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』というやたら長い題名の本。
  昨年末から読み始めていたが、越年。
 最初、車中で読もうとしたが、面白そうだし、周りに注意を払わずに読みたくて、すぐに自宅で続きを読むと決めた。

 出版社の案内によると、「1946年10月25日、ケンブリッジ大学のとある部屋でポパーとウィトゲンシュタインは初めて顔を合わせた。哲学が扱うべき問題は何か。このテーマをめぐって二人は激論を交わし、興奮のあまり火かき棒を手に殴り合ったという。哲学の“革命児”ウィトゲンシュタイン、対するは偉大な伝統に掉さすポパー。彼らのすれ違いは避けられない運命だったのか?」というものだが、実に面白かった。19世紀末のウイーンの世紀末文化に関心があれば、一層興味深く読めるはず。

 あるいは、ユダヤ人問題に関心があると、生々しい人間劇に唾を吞む思いがするだろう。二人の相克の背景にも深く関わっている。

「二人の哲学的背景、そして複雑な時代状況を解きほぐしてみせた筆さばきは、「感嘆するほど明晰」と『タイム』紙によって絶賛された」ほどで、記述の明確さと調査の徹底ぶりは見事と言うしかない。

 大学の卒論は、ウィトゲンシュタインを採り上げたかったが、歯が立たず、彼に影響されたのは歴然の「言語の自律性」という題名にした。先生方のお情けで優・良・可の「可」評価をやっともらった始末だった。

 西洋哲学科の学生なのに、他の強化は総て優だったのに、肝心の哲学は「可」という情けない学生だった。
 ただ、心酔に近いほど素晴らしいと感じた『論理哲学論考』を(当然ながら)原書で読めただけでも、哲学科に在籍した意義はあったと自らを慰めている。

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← ルートヴィヒ ヴィトゲンシュタイン (著)『反哲学的断章―文化と価値』(丘沢 静也 (翻訳)  青土社) 彼の言に接したくて、繰り返し読んだ本。

 この「論理哲学論考」は、のちのウィトゲンシュタイン自身、間違っていると断じている。
 ただ、問題は、書かれている(表記されている)部分ではなく、言外の世界にこそ意味があるという、その部分を考慮に入れて読むと、いや、むしろ、自分の直感では、まさに書いてある枠組みをそのまま透かせば、そこに言語では捉えられない美と真と驚異の世界が煌いていると感じるはずなのである。

 後期のウィトゲンシュタインは、日常言語の分析こそ、哲学の意義がある、あるいは、言語のもつれを、それこそ精神療法のようにほぐすこと、その行為そのものが哲学することだとしていたようだ。
 それでも、折々、箴言のような彼の呟きが漏れ聞こえてきて、それは彼が『論理哲学論考』で、言外に示すまさにその世界をずっと感じ続けていたことを示している。

 ただ、残念ながら、後期のウィトゲンシュタインは(このように前期・後期と分けることに違和感を覚える。何を以て分けるかの観点にも拠るだろうけど、自分の観点だと一貫していると感じる)、一切彼の著作を出していない。あくまで彼の講義を聞いた弟子らが講義の速記などの記録に基づいて著作に仕立てたものなのだ。

 読んでチンプンカンプンとは言わないが、これがウィトゲンシュタインの言わんとすることだったのかどうか、講義録とされる本を読んでも隔靴掻痒の感が深く、確信が持てず、読んでももどかしい思いばかりが募る。
 まして、彼の哲学の解説書はなおのことである。
 だかこそ、自分は、卒業後、ウィトゲンシュタインの本(翻訳本)は読んでも、彼の哲学の解説書の類は極力読まないように努めてきた。

 最近も、彼の言を集めた本(例えば、『ラスト・ライティングス』や『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』、『ウィトゲンシュタイン『秘密の日記』: 第一次世界大戦と『論理哲学論考』』など)が刊行されてきているので、当然ながらフォローしている。 そんな中、哲学の関連本ではあるが、ジャーナリストの取材に基づく本を読むのは、最初は躊躇われた。

 でも、読めば面白い。
 その面白さというのは、数式が苦手、だけど数学や宇宙論などの本やテーマは大好きという一般人向けに、数式を使わず、カオスやフラクタル、あるいは数論やひも理論を説明するようなもので、要は、分かったような気にさせる、書き手の腕前次第で、手際がいいと、数学の深淵に触れたような気にさえ、させてくれる、そんな体験に似ている。

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← S.トゥールミン/A.ジャニク 著『ウィトゲンシュタインのウィーン』(藤村龍雄 訳  平凡社ライブラリー) 単行本で出たとき、即座に入手し一気に読んだ。今も書棚に健在である。

 哲学のプロパーには物足りないかもしれないが、それでも、ポパーやウィトゲンシュタイン、世紀末ウイーンの文化(音楽や美術、建築、文学などなど)に関心があれば、初耳の情報が満載で専門家でも、論争…諍いの経緯や全貌が見渡せるようで、読み飽きないに違いない。
 とにかく、欧米のジャーナリストのレベルの高さに、心底感心させられた。

 一般向けの解説書としては、出版直後の本を生協で見つけて、乏しい小遣いを使い果たしても慌てて買い求めた、S.トゥールミン/A.ジャニク 著『ウィトゲンシュタインのウィーン』以来の面白さだった。
 それにしても、ウィトゲンシュタインの(かのラッセルを驚倒させるほどの)天才ぶりも際立っているが、彼の一族の資産も桁違いだったのだと、改めて驚いた。

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