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2017/01/06

残穢は至る所に

 今年は酉年なので、大好きな鶏のから揚げや焼き鳥なんかは、自制しようかな。庭などに飛来する野鳥を眺めて、野性を愛でるのもいいよね。

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← 小野不由美/著『残穢』(新潮文庫) 「この家は、どこか可怪(おか)しい。転居したばかりの部屋で、何かが畳を擦る音が聞こえ、背後には気配が……。だから、人が居着かないのか。何の変哲もないマンションで起きる怪異現象を調べるうち、ある因縁が浮かび上がる。かつて、ここでむかえた最期とは。怨みを伴う死は「穢(けが)れ」となり、感染は拡大するというのだが――山本周五郎賞受賞、戦慄の傑作ドキュメンタリー・ホラー長編!」 ストーリーなどの概要については、「残穢 - Wikipedia」などを参照願いたい。小野作品は本書が初めて。作者が女性だと初めてしった。

 今日は外出日。銀行でお金をおろし、百円ショップへ行って、雪囲いのための杭を物色(ちょっと品揃いは薄い)。スーパーで買い物(年越しそばを食べ損ねたので、今夜、食べる)。コインランドリーへ。最後は、庭木の剪定。いよいよ来週、雪のマークが続くので、雪囲いもとりあえず杭打ちだけ。

 年末の定番の紅白。見なくなって久しいなー。親が健在だった頃は、一緒に見ていたけど。誰が出演しても引退しても、何の感懐もない。

 本書は、広くは怪談モノだろう。「死に関する物語、幽霊、妖怪、怪物、あるいは怪奇現象に関する物語は民話伝説」(「怪談 - Wikipedia」など参照)といった点は、明らかに当てはまる。
 但し、多くの怪談モノは、本書の訳者による「解説」にあるように、「我が国の伝統的な怪談物語では、幽霊は生前の怨みを晴らすべく、特定の人物を標的にするのが一般的だった」。「祟られるのは基本的に怨敵とその関係者だった」。

 それが現代怪談の革新が1980年代に徐々に起きてきて、誰かが誰かを、ではなく、「先入観なく怪異の実体験談を見つめ直し、その恐ろしさをリアルに再現する」方向へ変化してきた、と訳者は言う。
 その変貌ぶりは解説などに説明を求めてもらうとして、本書も、怪談を実体験的にリアルに描くという国産現代怪談の潮流に掉さしている作品だと訳者は説明する。

 その上で、そのリアルさは、バイオテクノロジーやコンピューターサイエンス、あるいはSF的な領域に向かうのが大きなメインの流れだった。
 一方、『残穢』は、「ただひたすら過去へ向かう」という点で、まるで方向が違う。

 穢れの伝搬を平成から昭和、昭和から大正、大正から明治へと遡っていく。そこで掘り起こされるのは、破壊と建設を際限なく繰り返すことで気づきあげられてきた金現代社会の発展の陰に埋もれてしまった、名もない人々のはかなく無残な死に様なのだ(例えば、北九州の大小の炭鉱で無残な犠牲となっていった数知れない人々の怨念、公害の被害者ら、などなど)。

「それはわれわれ現代人が盤石なものと思い込んでいる現在の都市の町並みも人々の営みも、いずれ消えゆく仮象でしかないという事実を突きつけるとともに、われわれ誰もが遠い先祖たちから受け継ぎ心の奥底に抱いている、死に対する不合理なまでの強い恐れを呼び覚ます。知っていたはずなのに無意識に目を背けていた恐怖に、死者たちの声によって気づかされてしまうのだ」(訳者解説から)。

 小生の住む町も、ほんの十年前前までは農家が連なる町だった。子供の頃までさかのぼらなくても、農村の王影を残していた。我が家も農家で、十年程前までは畑もあれば田圃もあった。その昔は田圃じゃなく、麦畑だったということを知ったのは、父母が亡くなる直前の雑談の中でのことである。
 当然ながら、自分が子供の頃は、道路は街道を除くと、舗装されてなくて、我が家の傍をたまに車が通ると、でこぼこの砂利道に連れ車が揺れ、同時我が家の茶の間も揺らぐような震動を感じたものである。

 雨が降ればぬかるむ道だったが、そんな道を歩くのが好きだった。道を歩くと、ふと、当時流行っていた古銭ブームの影響もあって、道や何処かの古民家の床下に小判でも埋まっていないかと想像する……ってのは、冗談だが、でも、土の道の下に、昔の人が歩いた何かの跡が残っているのではないか、小銭じゃなくとも、キセルとか印籠とか鍬の破片とか……y
 あるいは、行倒れになった人の骨か歯とか。

 そんなことを想ったのは、小学生の頃、我が家から近所のお寺さんへ向かう小道に側溝というか、小川が流れていて、その幅が五十センチもない川に犬の死骸があったのを見かけたからだ。
 死んでもうそれなりの日時が経過していたのか、犬の死骸には蛆が湧いていた。
 だったら、人の死骸だって、身近な何処かしらに……なんて、妙な妄想が膨らんだ。

 あるいは、日本各地で合戦があったし、富山も領地の刈り取り場だったから、大小の戦があったろうし、昭和20年8月1日の富山大空襲では、市民3,000人が焼夷弾などの犠牲になった。
 死骸はちゃんと片付けられたのだろうが、燃えた死骸の肉片の残骸とか、髪の毛とか、焦げた骨の欠けらとかが埋まっていたりするのではと、根拠もなく想像させられてしまう。

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← 白都くろの著『ぼくたちが本当にシタかったこと』(イラスト/珈琲猫 ガガガ文庫) 「学校が「成年向けコンテンツ」つまりアダルトなコンテンツを作るための勉強をする学校であり、アダルトなビデオの現場の実践学習もあり、あれやこれやをシテしまう可能性があるということ」。「好きになった女の子が、「女優志望」だったら、どう考えてもハートが耐えられる自信がない」。 今日から本書を読み始めた。昔は、ロマンポルノかピンク映画のお世話になったものだが、今は、AVに惹かれる。内容の単刀直入さもさることながら、今はAV女優は、美人か美少女かスタイル抜群でないと、そもそも成れない、そんな狭き門。男の狭い料簡だと、どうしてこんな素敵な人が不特定多数の前でこんなあられもない……と思ってしまうが、それは男女の機微への理解が浅いからなんだろうね。

 いずれにしても、縄文の昔からの歴史の、あるいは歴史にならない歳月の積み重ねがあるわけで、当然、人や動物などの生き死にが、死屍累々たる闇の堆積があるに違いないのである。
 そんな歳月も、アスファルトやコンクリートの固い石棺に埋められ忘れ去られたのだろうし、その舗装された道をわれわれは今の日常を慌ただしく生きていく。

 怨念だけじゃない、喜びも悲しみも退屈も切迫も、汗も涙も血も溜め息もその土地土地に流れ溢れ零れ消滅していった、それは間違いないのだろう。
 ただ、われわれには過去には、折々しか向き合えない。生者は生者の動機で生きていくしかなく、それで精一杯なのだから、仕方がない。

 ただ、そんな中でも、作家という種族が居て、どんな方法やベクトルであるかは様々だとして、目に見えない情念に直面し、それどころか、過去をほじくり返してでも、厚い表皮を剥ぎ取ってでも、何事かを描かんとする衝動と本能に生きていく、その一人が、小野不由美という作家ということなのではないか。
 そんなことをチラッと思ったのである。

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