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2016/11/26

ニワのカモ

 さすがに一気に冷え込んだようで、暖房のための電気代が高騰。先々月に比べて先月は倍になった。まだ、十一月なのに、この先、電気代、どこまで上がるやら。

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← 富山市の郊外(八尾)に遭遇した夕景。

 今日から電気ストーブじゃなく、エアコンを使う。少なくとも四半世紀は使っているはず。温度は20度に設定です。
 以下、ナンセンスな言葉遊びです:

ハニュウのやどのニワにはニワ ニワトリがいる。ニワトリといっても、ニワのトリじゃない。ニワのトリでもない。ワニはいない。ワニなったハニワがニワコウの服を着てハニかんでいる。 


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2016/11/24

経済全般についての認識

 2016年度は、昨年3月14日の北陸新幹線の金沢駅までの延伸開業効果が案の定、薄れていくのを実感する一年であった。杞憂であって欲しいと思っていたのだが、案の定と言うべきか、金沢(駅)の一人勝ちの結果に終わってしまった。富山県も善戦はしたのだが、立山黒部あるいは小矢部など一部の地区を除くと、富山市を含め、ビジネス客はともかく、観光客については、期待したほどの集客効果はなかったようである。

 富山駅の新幹線駅舎は開業に間に合ったものの、路面電車の南北接続など、今もって工事中の現状が、観光客に不便をもたらした面があったのかもしれない(二度と富山駅には来ないという声を何度となく観光客から聞いた)。それ以上に、観光面の掘り起こしなどがまだまだ十分ではなかったとも言えそうである。むしろ、富山県人は観光好きな特徴があるようで、東京や長野など、県外へ出ていく人が多かったとも聞く。ある意味、富山県は観光に関しては、これから伸びしろがあると(期待を込め)考えるべきなのかもしれない。地道な努力の継続がまだまだ必要だろう。

 経済に関しては、アベノミクス効果は、予想通り、期待外れに終わっている。黒田日銀総裁は、任期中の物価上昇率2%の達成は諦め、退任後に実現すれば…という、無責任な発言をしている。地方創生という掛け声は勇ましかったが、むしろ、地方が危機感を以て自ら主体的に地盤沈下を避ける方策を考えるべきなのだろう。台湾など外国人の集客に力を入れるなど、観光面での工夫の余地はまだまだありそうである。あるいは、構造改革は緒にもついていない。首相自ら音頭を取っての賃金アップの試みも、実現する望みは薄いし、仮にあっても大企業に留まるのは歴然としている。

 安倍政権が固執しているTPP(環太平洋経済連携協定)も、トランプ次期大統領が来年1月20日の就任日に離脱を通告すると明言したことで、風前の灯火状態となっている。日ロの北方領土に絡む平和条約交渉(領土問題)も、ロシアのプーチン大統領から肩透かしの目に遭いそうである。ベトナムは日本の原発輸入計画を撤回する案を国会で妥結した。安倍首相肝いりの農業改革も自民党の農林族の反発で暗礁に乗り上げそうな雲行きである。安倍政権はまた、働き方改革に熱心だが、これは非正規労働者らの不安定な就労条件を一層不安定化させる懸念がある。

 一方、安倍政権は、2020年以降の地球温暖化対策「パリ協定」には至って後ろ向きで、TPPに執着するあまり、日本は批准の手続きに出遅れたのは周知の事実である。思うに、「パリ協定」つまりは地球環境問題は、TPPという経済協定より、はるかに影響の大きな問題だと思われる。経済が繫栄しても、日々環境劣化の結果の異常気象などに悩まされていては、生活自体が成り立たない。「一将功成りて万骨枯る」という言葉があるが、経済繁栄成りて地球環境が枯れ果てる、では元も子もないのだ。

 11月22日には、福島県沖でまた大きな地震が発生し、津波が宮城や福島沿岸を襲った。津波が川を遡上する光景を再び目にすることになった。安倍政権は、東日本大震災を経験し、福島原発のメルトダウンという結果を見ても、原発再稼働に突き進んでいる。被害者への賠償額も、結局は国民全部に負担させるよう画策している。原発立地の地元では、万が一に備え、地域住民の避難訓練が行われている。いつかまた同じ悪夢を体験するのではという怯えを抱えてまで、放射能汚染物質の処理に窮してまで、日本が原発推進政策を推し進める必要がどこにあるだろう。

 それより、原発については、廃炉技術の開発研究に特化したほうがはるかに日本さらには世界に貢献できるだろう。原発より再生エネルギーで総ての必要なエネルギーを賄うと、政府が世界に向かって宣言したなら、水力や風力、地熱、波力、太陽光発電など、日本中の企業や技術者、地域自治体などがどんなに沸き立つことだろう。これこそ、一番貴重な日本の構造改革になるのではないか。原発を廃炉にした地域には、再生エネルギー特区に指定するなど、原発に変わるメリットを供すれば、原発賛成派も反対派ももろ手を挙げて歓迎するに違いない。

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2016/11/22

ソローキン『青い脂』に脂汗!

 本書ソローキン 著の『青い脂』の存在は、「読書メーター」で知った。
 そこでの感想や、特に題名(!)に惹かれて、中身を観ずに注文した。むろん、「第3回 twitter文学賞 海外編 第1位!」ってことも、今日、完走を書こうと、出版サイトを覗いて初めて知ったほど。

9784309206011

← ウラジーミル・ソローキン 著『青い脂』(望月 哲男 /松下 隆志 訳 河出文庫) 一昨日、読了。読んだと言えるかどうか、覚束ないけど。

 出版社の内容紹介によると、「体の文学クローンから採取された不思議な物質「青い脂」が、ヒトラーとスターリンがヨーロッパを支配するもう一つの世界に送り込まれる。現代文学の怪物によるSF巨編」とあるが、久しぶりにSFを読むのもいいかなという思いもあった。

 小学生の高学年からは、近所の貸本屋さんから、漫画に加え冒険小説を、それが、中学生になるころには、漫画に加えSF小説を借りだすようになった。
 推理(探偵)小説やまして純文学系の本は借りなかったと思う(というか、そういった系統の本が置いてあったかどうかも覚えていない)。

 仄聞するところによると、一部からは名うての「変態作家」と呼称されているとか。
 実際、読んでみて、そもそもストーリーを語るのは意味がないように感じる。

 もっと、ストーリーを絞れば、映画化もされたトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』やピエール・ルメートルの『悲しみのイレーヌ』になろうが、エログロ変態ぶりは、そんなちんまりした比較を哄笑されるだけだろう。
 独創性で傑出したSF小説というと、、アンドレイ・タルコフスキー監督により映画化された、ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』をふと思い浮かべるが、それほど象徴性で想念を駆り立てるわけではない。

 むしろ、スターリンやヒットラーの蛮行を、文学という筆の力でどうやったら太刀打ちできるかと、エロとグロ、ナンセンス、そして想像と妄想と絶望と高尚でソローキンの脳と能の限りを尽くしたが、奮戦善戦敢え無く玉砕したと言うしかない小説である。

 ロシアの文豪であるトルストイやドストエフスキー、ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーゴリにプーシキン、ゴンチャロフにソルジェニーツィン、詩人ならアフマートヴァといった連中には、逆立ちしても書かなかった、あるいは書けなかった、エログロの極致へと突き抜けようとした……が出来なかったと思う。

 ロシアやソ連の皇帝や権力トップの非道(その後のポルポト派の蛮行やアフリカの民族紛争、18世紀の白人によるインディアン虐殺などなど、数限りない野蛮)は、人間の想像力を遥かに超えている。

 だからといって、黙ってはいられない。沈黙は雄弁…だなんて気取っていては、あっさり戦車に踏み潰されて通り過ぎ、ぺっちゃんこの躯が吹きっ晒しに置き去りにされるだけ。

 現実の悲惨の底抜けの凄みに、どうペンは立ち向かえばいいのか。実験的にでも狂気を生き切ってみる以外にあるだろうか、なんてほざいてみても、負け犬の遠吠えにもならないのだろう。
 それでも、本を読む以上は、文学に限らず、何かしらを信じたいのだろう。それが人間なのかどうかは分からないけど。

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2016/11/21

実らずも頭の垂れるススキかな

 このところ、ニック・レーン著の『生命、エネルギー、進化』(みすず書房)や、ウラジーミル・ソローキン著の『青い脂』(河出文庫)、車中ではウィリアム・ゴールディング著の『蠅の王』(新潮文庫)などを読んでいる。

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→ 我が家の庭。いよいよ晩秋の色が濃い。何処か寒々しい。
  

実らずも頭(こうべ)の垂れるススキかな   (や)

 これらのいずれかを読了したなら、プルースト著の『失われた時を求めて 囚われの女I 10巻』 (岩波文庫)を読む予定でいる。吉川氏訳の『失われた時を求めて』もいよいよ第10巻に入る。あと数年、同書(同じ作家、同じ訳者)と付き合う。
 読むのは嫌いじゃないが、もともと遅いほうである。
 老眼のせいもあってか、時には数頁読むだけで目を閉じてしまうこともしばしばである。
 それでも……

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← 先日、もらったユズ。その種を鉢植えしようと思ったが、あるはずの土がない。余儀なく、買い物ついでに培養土を購入。ユズに合うかどうか分らないが。さて、来春、芽を吹くか……まず無理だろうけどさ。 その前に、来春、鉢植えのユズ(の種)のこと、覚えているかどうかが怪しい。

 以下は、「悪足掻きする末黒の芒(すぐろのすすき) 」(2006/02/24)からの抜粋である:

(前略)ゆっくりじっくり読んできたのである。それもいよいよ悲劇的な結末部分に、恐らくは今週末には至ってしまう。
 長編というのは、読み応えがあり、その世界の中にどっぷりと浸らせてくれるが、それだけにその世界から抜け出すとなると一抹の寂しさの感さえ湧いてくる。

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→ 庭を巡ると、南天を含め、画像に見られるような、小さいけれど深紅の実があちこちで見受けられる。雪が降っても、純白の世界に、それこそ血の涙のような真っ赤な実が際立つ。

 所詮は虚構作品であり物語であり、身も蓋もない言い方をすると、白い紙面の活字の世界を目が追っているだけなのである。タクシーの仕事に自分の精力の大半を捧げ、残った僅かな気力の欠片で本を読み、由無し言を綴っている。
 なのに、本を繙くと、一気にその世界に没入させてくれる長編の魔力。というか作家の魔力なのだろうか。

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 こんなに断片的に、途切れ途切れに読んでいるのに、栞(しおり)を頼りに前回読み終わった頁を覗き込み、前の章の終わりの一節を斜め読みし、気分も新たに次の章の冒頭部分から活字を追い始める。
 世事で中断していた間に、本の間に栞ではなく、雑事が、雑念が、怠惰が、失念が挟まっているはずなのに、そう、まるでメビウスの輪のように、俗事という夾雑物、つまりは障害物などするりと乗り越え、あるいは回避させてくれて、前の章と次の章とを繋ぎ合わせてくれる、作家の筆力。

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→ 咲いている花々は少ないかわり、紅葉や黄葉が庭を彩ってくれている。

 手元の電気スタンドが小生の周辺を明るく照らし出してくれる。頭や肩や背中と共に、明かりは本を浮かび上がらせる。やがて本の存在も忘れ果て、活字を追っていることも忘れ、馴染み深くなった登場人物群の饒舌や寡黙や言葉や感情の齟齬、野心、情愛、嫉妬、妄想、打算、愉楽を我がことのように感情移入する。
 読んでいるというのは、一体、どういう作業なのだろう。作業という言葉は不適切か。読んでいる最中、読み手は一体、何をしているのか。

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 アンナは、どうしてそこまで追い詰められていくのか。作家の不倫への願望が裏にあるのか。やむをえざる情念の必然に過ぎないのだろうか。愛し合うとは憎しみと裏腹でなければ持続などしないのか。愛と憎悪とが螺旋を描いてしまって、つい生真面目に情念に忠実なる僕(しもべ)となったものは、かくあるしかないということなのか。


関連拙稿:

我が家の庭はススキの野に…(後編)」(2011/10/24)
悪足掻きする末黒の芒(すぐろのすすき) 」(2006/02/24)

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