« 2016年10月30日 - 2016年11月5日 | トップページ | 2016年11月13日 - 2016年11月19日 »

2016/11/12

はだかの起源 言語の起源

 島泰三著の『はだかの起原―不適者は生きのびる 』(木楽舎)を読んでいる。十年程前に図書館から借りだして読んだことがあるので、再読である。

413gy6mjg1l__sx320_bo1204203200_

← 島泰三著『はだかの起原―不適者は生きのびる 』(木楽舎)

 読んだ時の印象が強くて、いつか入手し再読したいと思ってきた。ようやく、その日が来たわけである。
 ヒトが裸になる。つまり、獣…毛ものではなく、全身ほぼ無毛の体躯となるということの意味はいかに大きいか。
 その前に、体毛があることのメリットを失ってまで、敢えて無毛の体を選び生きたその意味は、想像以上に大きい。
 むろんというべきか、ヒトが敢えて意図的に選んだわけではない。
 そうではなく、最初はケモノたちの中に、異常な体質のものとして生まれたのだろう。
 だが、その大半はケモノの生きる環境では生きられなかった。たとえ、親たちが異常な子であっても守ろう、育てようとしても、カによって感染するマラリアなどにあっけなく命を奪われていく。
 
 週に一度か二度は、庭仕事をする。我が家の庭は、藪のような状態になっていて、剪定をする際にも、ちゃんとした作業着を着用していないと大変である。むろん、長靴は必須。手袋も、できれば、マスクやメガネもあったほうがいい。枝葉を切ると、細かな木屑や花粉、埃、蜘蛛の糸などが飛んできたリ、体にまつわりつく。
 あるいは、杉の木の脇を通ると、それだけで、腕や脛や肩や、もう体の至る所を擦る。あるいは、棘のある葉っぱに、切ったり折った枝の切っ先に傷つけられる。
 時折、晴れた日の朝など玄関の戸を開けると、ふと、伸びた枝などが気になる。あの一本だけ、切ろうと思うのだが、一本切ると、その傍の枝が、その向こうの枝葉が気になって、あるいは、遠くからは見えない雑草が目についたりして、気が付くと、サンダル履き、半そで、無帽で一時間もムキになって作業することがある。
 そんなにやるはずじゃなかったのに、つい、夢中になってしまうのだ。
 気が付くと、体のあちこちが擦り傷だらけとなっている始末。
 若いころと違って、ちょっとした傷でも治りづらい。
 幸い、変な虫に刺されて腫れあがるってことは今のところないのだが、そんな事態も十分ありえる。
 それが、アフリカの大地で、多くの獣たちの中で、裸…無毛の体で生まれたら、たとえ幼児期を脱しても、仲間とは一緒の生活を送ることはできないだろう。足手まといになるのが目に見えている。
 
 無毛だけじゃない、どうやら、ヒトが無毛となった時期と相前後して、ヒトは言語(発話能力)を獲得したらしい。
 言語(発話能力)は、ヒトにおける食道と気管支の複雑な発達と深いかかわりがある。
 サルは、鼻で息をしながら、食事ができる。鼻から吸った息がすんなり気管支を通って肺に向かい、一方、口に何かを銜えていても、ちゃんともぐもぐやって呑み込める。
 一方、ヒトとなった現生人類は、息をする時には食事ができない。
 喋る時には、息ができない。咽頭の構造がサルとは違うのである。
 サルなど、それまでの類人類が享受してきた呼吸(と給食)同時遂行能力を喪失してまでも、ヒトは発話能力を獲得した。しかも、その能力は、生後三か月の頃に、赤ちゃんが懸命に親の発話(発声)を真似て、声を出そうとする。
 サルなどの全身の体毛や呼吸能力を犠牲にしてまで、ヒトは無毛の体と言語(発話能力)を得ようとしたわけだ。
 能力を獲得してしまえば、非常なメリットがあるのは分かるとしても、獲得し、そうした仲間が増えるまでは、その移行期間の間はどう、その(当初は)異常児たちが生き延びられたのだろう。
 さて、本書もあと少しで読了である。
 その辺りの謎はどう解き明かされるのか、楽しみである。


島泰三著『はだかの起原―不適者は生きのびる 』(木楽舎)関連拙稿:
ヒトはいかにして人となったか 」(2007-02-17)
「はだかの起原」…シラミから衣類の誕生を知る?」(2006/02/12)
『日本人の起源―古人骨からルーツを探る』感想」( 2006-02-15 )
はだかの起原、海の惨劇 」(2006-02-06 )
居眠りには読書だ…『日本人の起源―古人骨からルーツを探る』 」(2016-11-12)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/10

淋しさは氷雨のように

 探している。
 一つの答えを。それとも終わりへの糸口を。

2016_1616

 何もかもを捨て去りたい。忘れ去りたい。
 目を閉じて、心をも閉ざして、そうして見えてくるものは、形にならない塊。

 あれは猫なのか? 白い猫なのか!
 いや、蛾だ。鱗粉を撒き散らす蝶だ。
 狸もいるし、雀もいる。
 お爺ちゃんが目を真ん丸にしてこっちを見ている。
 機関銃の銃身を捻じ曲げてでも、こっちを狙っている。

 ああ、なんて賑やかなんだろう。まるで、今まで見てきた悪夢が一度に現れたみたいだ。
 焦がれる心が潤いをなくして、今にも蒸発しそうだ。
 会いたいという思いが火となって時空を焼き尽くそうとしている。

2014_1400

 探しているんだよ。そう、あなたなら分かるはずだ。何を探しているかをね。
 泡の中に封じ込められた思い。無数の泡たちが宙をふわふら飛び交っている。
 ぶつかったり、すれ違ったり。やがて、弾けて消えていく。

 手を振っているの? それとも、さよならって告げているの。
 出会ってもいないのに、もう、別れを告げてしまうの。

 真っ青な喪服に身を包んで、誰の葬儀に参列しているの?
 棺の中に横たわる、ウエディングドレスに身を包んだあの蒼白の人は、誰? あなた? 
 いつものように、ただ立ち竦んでいるのは、オレ?
 表情が翳っているのは、素敵なティアラのせいなの?

2016_1617

 淋しさは氷雨のように我が身を叩いている。あなたの冷たい指先の感触が忘れられない。
 どうして凍て付いてしまったのか。
 このオレを抱きしめて、そうして氷の微笑で刺し貫こうとでも?

 身も心も迷子だよ。何も分からないんだよ。
 答えは誰が知っているの?
 吹き千切られたあの手紙の行方は、あの日の風だけが知っているの?


[本文中の画像は総て、「小林たかゆき お絵かきチャンピオン」より。]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/08

J・M・クッツェーの批評精神 翻って自分の創作は

 今日も庭木の剪定。主に成長の早い夾竹桃など。脚立に登って、更に高枝切鋏を使って。曇天だったのが、次第に小雨が降りだして、せっせと作業。汗なのか雨水なのか、体がびっしょり。

9784900997424

← J・M・クッツェー著『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』(くぼたのぞみ訳 装幀:間村俊一  INSCRIPT) 二週間以上を費やして読了。 「自伝はすべてストーリーテリングであり、書くということはすべて自伝である」(クッツェー)!

 この連休中、二日は秋晴れに恵まれ、外出日和。でも、生憎と畑や庭仕事が山積みになっている。何処か美術館とか行ってみたいけど、自制。
 とりあえず、最低限の剪定は終えたけど、雪吊りや雪囲いまではできなかった。

 昨年の六月から通っている内科のお医者さんに、運動不足を何度も指摘されている。もっと歩きなさいと。でも、雑用がありすぎて…なんて、言い訳するばかり。
 なので、せめて、庭仕事などで体を動かしているのだ。運動になるのかどうかわからないけど。

 さて、連休中、ぼちぼちと読書。今朝は、半月以上を費やしていた、J・M・クッツェー著の『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』を読了。
 三つの作品のいずれも、それぞれの味わいがあって、面白かった。
 面白いなんて、気軽な感想じゃまずいんだろうな。

Dsc_0349

→ 富山市には、こうした古びた路地裏、飲み屋街が少ない。そこが町の味わいという点で、ちょっと物足りない。空襲で市街地が全焼したから、街づくりが新しいのはやむを得ないけどさ。

 なんたって、訳者も強調しているように、「クッツェー作品は無批判に登場人物とその行動に自分を重ね、共感してストーリーを読み、消費することをなかなか許さない。明晰かつ簡潔な強いことばで一気に読ませながら、読者の側に知らず知らず自省へ誘う契機を手渡すからだ。手渡された側には、歴史や土地をめぐるみずからの立ち位置を見直す沈黙が醸し出されていく。そんな批評空間へのきっかけを文章内に埋め込む作家、それがクッツェーだ」というのだから。

 クッツェーの姿勢を一番、示している一言は、「自伝はすべてストーリーテリングであり、書くということはすべて自伝である」だろう。

 生まれながらに多言語の環境にあり、しかも、自国語ではなく、親には英語の使用を強制され、学校では違う言語を使わないと仲間外れにされる(使っても、異分子扱いされるのだが)。
 そうした環境に生まれ育てば、言語(など)の使用には自覚的になり、反省的になり、批判的にもならざるを得ないのだろう。
 だが、そうした環境を生きても、だれでもが、クッツェーになれるはずもない。

 翻って、自分はというと、言語の使用に自覚的にならざるを得ない、別の契機があったとは言える。
 それは、言語障害だったり、異貌意識だったり。
 生まれ育った地に、愛着がないわけではないが、平板な街並みに、思い入れがなかなか難しい。緑溢れる光景に恵まれたわけではないし、田園地帯でもなかったし(生まれる前までは農村だったのだろうが)、かといって、都会とは縁遠い。

Dsc_0353

← 左側の小銭入れが長年の使用で縫製が切れた。そこで右側のほうを今日から使う。どちらも父の遺品。右側も擦り切れている。そうそう、財布も父の遺品。今、三つ目を使用中。帰郷して8年余り。財布も小銭入れも買ったことがない。でも、そろそろ最後かな。

 何をとっても中途半端な、やや閉鎖的で内向きの、小さなお山の大将気質の地域性(こうした視野狭窄的な傾向は富山全般に当てはまるかもしれない)。
 ただ、自分の場合、器質に由来するのか、ある面で極端になっているのかもしれない。

 昔、本を出した時、奥付の著者略歴のに、「デジタル社会の中、稀薄化する現実感覚や肉体的存在感の恢復をテーマとしている」なんて書いた。
 さらに、蛇足として、「ヴォルスやフォートリエなど、抽象性と生々しさが緊張しつつも共存する絵画に創作上の発想の端緒を得ることがある」なんて書いたのは、今となっては愛嬌であると思うが。

 つまり、自分が創作に傾注するとしても、生々しい現実性や思い出や人間関係から、何物かを抽出するのではなく、無の時空から、真空の時空から、幽かな生の気配を、気配の微粒子を摘み掬い上げるといった作業しかできないだろうということだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/07

ヴァギナというと「泉」を想う

 今日も快晴。日頃、お医者さんに運動不足を幾度も指摘され、もっと歩きなさいって言われている。でも、その前にやることがいろいろ。
 というわけで、やらなきゃいけないことの一つとして、庭木の剪定に午前に1時間、午後にも2時間やって、汗だくに。作業後のシャワーが気持ちいい!

9784309463513

← キャサリン・ブラックリッジ 著『ヴァギナ 女性器の文化史』(藤田 真利子 訳 河出文庫)

 それにしても、富山市議の補選。投票率、26%程度だって。あんまりだ!
 来年には、今の市議たちの改選が待っている。つまり、今回の補選の当選者は数か月の任期だということ。
 ホント、補選の選挙経費の一億円余りは、辞任した議員たちに払ってもらいたいよ!

 庭仕事のあとは、ご褒美じゃないけど、読書。 J・M・クッツェー著の『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉』や、『ヴァギナ』に続いて読み始めた、宝賀寿男著の『物部氏―剣神奉斎の軍事大族』などを楽しむ。

 さて、昨日、キャサリン・ブラックリッジ 著『ヴァギナ 女性器の文化史』を読了した。
 キャッチコピーが「誰もが生まれてきた あの場所の全貌」だって。

 本書を読むのは二度目。最初は、単行本で、刊行直後に入手し一気に読んだ。

Jean_auguste_dominique_ingres__the_

→ ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル作「泉」 (画像は、「泉 (絵画) - Wikipedia」より) ヴァギナというと、いや、女性というと、その豊穣さから即、この作品を連想したよ。

 十数年ぶりに文庫版が出たので、今回は、じっくりゆっくり読んだよ。それだけ内容が濃い。過日、メノ・スヒルトハウゼン著の『ダーウィンの覗き穴:性的器官はいかに進化したか』を読んで、男女の性器の内外の構造の精緻さ、雌雄共の生殖へのあくなき生存戦略に感動した。そうした最新知識を元に、本書を改めて味読したくなったのだ。
 微妙で繊細な分野の本、表立ってはなかなか話題の俎上には載せづらい、だけど、とても大切な話題だろう。

 ただ、本書の結論部にやや違和感を覚えた。過去、数世紀の間(いや、ずっと前から)、ヴァギナは性的快感と生殖になんの役割も果たさず、単なる精子を受け取る容器だという考え方が一般的だった。この見方が間違っていることを本書が証明できた」と語っているのは、いい。
 だが、著者はさらに、「ヴァギナから子宮にいたる生殖器あ、精子を運び受胎した卵子を育てるだけの単なる入れ物ではなく、精子の選別や受胎にもっと積極的な役割を果たしている」と強調している。

Sex

← メノ・スヒルトハウゼン【著】『ダーウィンの覗き穴――性的器官はいかに進化したか』(田沢恭子【訳】 早川書房) 拙稿「ダーウィンから痴女へ!(上)」や「ダーウィンから痴女へ!(下)」など参照。

 これだと、例えば、レイプなどで望まざる妊娠という結果に至った場合、裁判などで、(加害者を弁護するような)悪徳弁護士などは、こうした最新の学説を援用し、妊娠に至ったのは、母体であるアナタ(の生殖器)が相手(加害者側)の精子を受け入れたからだ、などと強弁する可能性があるのではと懸念されるのである。結論部は、もう少し、雌(特に人間の女性)側の、生殖器の積極性について、精緻な議論と研究が必要と思われるのだ。

 どうせ、文庫版を出すなら、最新の研究成果を加味した増補版にしてほしかった。それだけ、男女共に読むに値する本だと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/06

月の兎悲話

Tamamushi_shrine_lower_left

→ 捨身飼虎図(須弥座向かって右面) (画像は、「玉虫厨子 - Wikipedia」より)

 昨日のような秋晴れじゃなく、午前中は小雨の降る生憎の天気。
 午後になってようやく雨も上がったので、富山市議選の投票へ。作られたばかりの公民館へ足を運んだ……ってのは、嘘で、いつものように自転車を駆って。

 中はいかにも真新しいという建物で、その広い館内に、投票するのは自分一人。地元の人たちはどうしたんだ、誰も来ないのか……なんて思っていたら、帰る間際になってようやく、ポツポツと人がやってきた。
 ホント、閑散な会場に、なんだかがっかりの感。政治活動費(税金)の不正使用に端を発し、富山市議だけでも12名が辞めたという、非常に関心を呼ぶはずの選挙なのに、富山の市民は怒らないのかと、拍子抜けの感。
 選挙の争点が政務活動費の使途の明確化なんて、あまりに後ろ向きなテーマに呆れているのか、与党も野党も腐敗していて、市民は力が入らないのか。
 でも、市長はコンパクトシティなんて、標榜しているが、小生は問題があまりに大きな政策だと思っている(何度か採り上げたので、ここでは触れない。要は、日本が東京一極集中になって地方が疲弊しているのを、富山市では富山の駅前周辺や路面電車(主に環状線)中心の繁栄を企図する、要はミニ版の一極集中政策を採っているのであって、弊害が大き過ぎると指摘)。
 さて、選挙と買い物を終えて、雨も上がったことだし、高枝切鋏で庭木の剪定に二時間ほど没頭した。
 冬に向かって、雪吊りもしないといけないが、まずは枝葉の剪定。枝葉に雪が被ると、枝が撓って、隣家や我が家の壁面にしな垂れかかったり、壁面を擦ったりして、実害が生じる恐れがあるので、その予防のためもある。
 あと二三回は、同じ作業を繰り返さないといけない。
 さらに待っているのは、雪吊り。といっても、そんな立派なことはできないので、樹木に縄を巡らす程度の作業である。

 昨日から車中で、『今昔物語集』 を読み始めた。

「インド、中国、日本では北海道から沖縄まで、広大な舞台に繰り広げられる、平安朝の生んだ日本最大の説話大百科。登場人物も僧・武士・庶民などさまざまな階層に及び、ヴァラエティに富む説話を収録。現代語訳と、古文の生き生きとしたリズムによって、豊饒な話の宝庫をヴィジュアルに楽しめる」といった本。
 そう、ビギナーズ・クラシックスということで、小生のような古典に弱い、でも、関心だけは抱いている初心者向けの本。

「今昔物語集」なんて、読み下し文であっても、日本編ですら読み通すことはないだろう。
 ましてインドや中国編などは恐らく、一生目にしないはず。
 そうはいっても、雰囲気だけでも味わいたくて、本書を手にしたのである。

 まだ、読み止しだが、興味深い話を知った。
 あるいは、世の人たちには常識なのかもしれないが、自分には初耳のこと。
 我々日本人は昔から、月にはウサギさんがいて、月の影は、ウサギさんが餅を搗いているという場面を読み込んでしまう。そう言われてきたから、先入観がある。人によれば他の物語を読み込むかもしれない。
 昔から日本に伝わる話、きっと中国辺りの影響なのだろうと、根拠もなく想っていた。

51sa6xe99dl__sx230_

← 『今昔物語集』 (角川書店 (編集) 角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 実際、「月の兎は、「月に兎がいる」という伝承にまつわる伝説。中国では玉兎(ぎょくと)、月兎(げつと)などと呼ばれる」という。

 が、本書によると、どうやら違うようである。

 便宜上、「月の兎 - Wikipedia」を参照させてもらう。

「月になぜ兎がいるのかを語る伝説にはインドに伝わる『ジャータカ』などの仏教説話に見られ、日本に渡来し『今昔物語集』などにも収録され多く語られている。その内容は以下のようなものである」として、以下の話が紹介されている:

猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ。その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、兎を月へと昇らせた。月に見える兎の姿の周囲に煙状の影が見えるのは、兎が自らの身を焼いた際の煙だという。

 そうか、単にウサギが杵を持ち臼で餅を搗いているといった、呑気な話なんかじゃなく、「玉虫厨子」に描かれる、「捨身飼虎」図の物語を連想させる、哀しくもありがたい話があったのだった。
 今度からは、満月の夜には、もっとしみじみ、眺めてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年10月30日 - 2016年11月5日 | トップページ | 2016年11月13日 - 2016年11月19日 »