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2016/09/24

ムクドリの天下

 以下は、拙稿「カラスの森 ? !」(2006/10/30)より抜粋:
(前 略)
 カラスがやたらと多い。
 あるいは、カラスの森で、区の管理下にある施設であり、民家に見えるのは、管理人(世話人)の家なのかもしれない。

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← 夕暮れ時、数知れないムクドリたちが我が家の近くの電線で一休み。かまびすしい鳴き声。一瞬、ヒッチコック監督の映画「鳥」を連想(← 古い?)。エンジン音に驚いたか、一斉に飛び立ち塒(ねぐら)へと。 気のせいか、富山(市)では、カラスやスズメなどより、ムクドリが圧倒的に目立つような……。この目撃体験で、昔、鳥絡みの日記を幾つか書いたのを思い出した。

   とにかく、その森(林?)にはカラスが一杯。十数メートルの木々が数多く聳え立っていて、木々の枝分かれした陰には、どうやらカラスの巣があるようだ。
 頭上にはカラスが右往左往。
 どうやら、得体の知れない者が、つまり小生が中の様子を伺っていることに気付き、警戒しているよう。
 鳴き声が喧(かまびす)しい。

 小生、上掲の本を読み始めていることもあり、カラスの巣を探したが、やはり素人には簡単には見つけられない。
 とりあえず、持参したデジカメで中の様子を撮影。
 その際、ついフラッシュ撮影となったようで、そのフラッシュがカラスの警戒態勢を一層、強めたのは明らか。 鳴き声のトーンもペースも速くなり、不穏な空気さえ漂ってくる。
 小生、段々、怖くなってきた。 このままだと、カラスに襲われる。 ヒッチコックの映画「鳥」をふと、思い出したりして。
 小生、早々に退散してしまった。

 それにしても、取りあえずは、カラスの森と呼んでおくが、あの公園(林? 森?)は謎だ。

(中 略)

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→ カラスの森の中のカラス小屋? 何羽かのカラスがバタバタやっていた。不審者(我輩のことだ!)が覗いていることに気付いてのことなのか…。

 そもそもカラスは自分の縄張りを守るのが先決であって、そのカラスは番(つがい=夫婦)とその雛が一つの単位で暮らしている。
 つまり、その単位の縄張りを侵犯された(とカラスが思った)ら、その侵犯者に威嚇することがあるだけなのである。
 よって、他の夫婦が一緒になって侵犯する人(や動物など)を威嚇したり、まして襲うようなことはめったにないのだという。
 ただ、子育て最中だと、人を襲うこともある。カラスによっては、死に物狂いで襲ってくることだってあるとか。
 それでも、集団で襲ってくるという観察例はないらしい。

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2016/09/23

『ロボットの脅威: 人の仕事がなくなる日』が予言する近未来

 マーティン・フォード著『ロボットの脅威: 人の仕事がなくなる日』を読了した。
 読むほどに背筋の寒くなるような本。

Content

← マーティン・フォード著『ロボットの脅威: 人の仕事がなくなる日』(松本 剛史訳 日本経済新聞出版社) 

 著者は、ロボット技術は、人間の補助・介添えの域をはるかに超えて進んでいく。
 だから、著者は、世の中の大半のルーティンワークは、かなりの知的な労働であってさえ、ロボットやコンピューター(ソフトウエア)に奪われていくだろうという。

 本書の内容案内によると、「ホワイトカラーに迫る危機!残酷な産業革命の到来!雇用はロボットに代替され、中間層が消滅。格差は拡大、消費が縮み、経済成長は限界に」というテーマの本。
 冒頭の数十頁を読んだ段階で、トマ・ピケティの『21世紀の資本』をロボット技術の急劇な発達という側面から裏書きしたと言えそうと感じた。

 その直感は当たっていたようで、本書の最終章「新たな経済パラダイムをめざして」の終わりのほうで、著者はピケティの上掲書に言及している:

 二〇一四年に大変な注目を浴びたピケティの本は、今後数十年間は、所得も資産も格差が拡大する方向に向かうだろうと論じている。ピケティは格差の問題に、純粋に経済データの歴史的分析という視点からのみアプローチした。その中心となる論点は、資本に対する収益率は通常は経済成長率全体より大きいため、資本を持っていれば時とともに経済的なパイの取り分が増えるということだ。本書で特に取り上げてきた経済的傾向については、ピケティは驚くほどわずかな関心しか示していない。実際、七〇〇ページ近くある彼の本のなかで、「ロボット」という言葉はたった一回出てくるだけだ。ピケティの理論がもし正しいとすれば――現在も大変な論争の的となっているが――テクノロジーの進歩は彼の結論をさらに増幅し、そのモデルが予測するよりもさらに高いレベルの格差を作り出すのではないかと私は考える。

Technology

← マーティン・フォード (著)『テクノロジーが雇用の75%を奪う』(秋山 勝 (翻訳)  朝日新聞出版) 「機械は人間に代わって労働することはできるが、消費することはできない。消費者を失った大量消費市場はやがて破綻するだろう。未来において経済を持続させるために、われわれがとるべき方策はあるのか」!

 本書は、まさにソフトウエアやロボット技術の進歩がいかに脅威なのかを縷々語っている。
 過去の産業革命は、古い仕事を奪う一方で、新しい職業や産業も生んだ。つまり雇用の受け皿は、産業技術の発展で次々と盛衰を繰り返しつつも、確保されてきたわけだ。

 馬車が車に変わって、御者や馬車を作る仕事はなくなったが、自動車産業という巨大な受け皿が生まれ、雇用が確保され、賃金もあがった。が、ロボット技術の進展は、ルーティーンワークのみならず、高度な知的エリートからも仕事を奪っていく。トヨタが膨大な社員を抱える一方、グーグルやフェイスブックなどは、利益の膨大さの割に抱える社員の数は驚くほど少ない。大半の仕事はコンピューターやロボットがこなしてくれるからだ。

 改めて本書の内容案内によると:

急速に進歩する情報技術がもたらす人工知能、ロボット、ソフトウェアの進化は大量の失業、所得格差の一層の拡大をもたらし、経済、社会に破壊的な影響を与えずにはおかない。

将来生き残る職業は何か? それにはどの程度の量があるのか? だれがその職に就けるのか? 今日の産業革命についてわれわれは、過去と同様に展開するだろうと想像し、期待するだろう。一部の職は消滅するが、それを上回る、新時代のイノベーションに取り組むための職が新たに生み出されるだろう、と。

本書の著者、マーティン・フォードは、その期待はまったくの的外れだと論じる。技術の進歩が加速し、機械が機械自らを自律的に動かすようになると、必要とされる人間の数は減っていく。人工知能はすでに報酬・スキルの高い「よい仕事」を不要なものとしつつある。しかも、知識をベースとした職業、弁護士補佐、ジャーナリスト、オフィスワーカー、コンピュータプログラマーなどのホワイトカラーの仕事のほうが、ロボットや賢いソフトウェアに取って代わられる可能性は高いのだ。

技術進歩が続けば、ブルーカラー、ホワイトカラーの仕事はともに蒸発し、労働者階層、中間層の生活はさらに苦しくなる。同時に、家計は、まだ情報技術による変革の及んでいない、教育、医療という二つの主要な産業の高騰するコストに直撃されることになる。その結果、大量失業が発生し、不平等が広がり、また、社会の消費活動そのものが押しつぶされることになる。

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2016/09/22

鏝絵を芸術の域にまで高めた竹内源造

 雨の中、暇の徒然に車中でふとテレビを見ていたら、「鏝絵(こてえ)」を紹介していた。
 というより、竹内源造(1886~1942)という名の、小杉左官の名工の作品を紹介していたのだ。
 全くの初耳、初見である(と思う)。

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→ 千光寺は、「閻魔像を安置する寺としてもよく知られる」とか。閻魔さまは、「日本の仏教においては地蔵菩薩の化身とみなされ同一視されている」らしい。これは、源造の作品ではない。 (画像は、「千光寺 (砺波市) - Wikipedia」より)

射水市|公共施設一覧|竹内源造記念館」によると、「鏝絵とは、建物の壁や天井の装飾として、左官が壁を塗る鏝(こて)を用いて絵や模様を浮き彫りにしたもので、使用する材料から漆喰彫刻ともいわれてい」るとか。
「竹内源造は、小杉左官の中でも卓越した技術と芸術性を持ち、県内外の土蔵や寺社、企業、役所等に数多くの作品を残しました」という。

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← 「千光寺の土蔵」 黒漆喰土扉には、「松と鷹」を描いた源造の鏝絵がある。高肉彫りの手法が取られている。

竹内源造記念館|竹内源造の生涯と作品」によると、「源造は東京の帝国ホテル(初代)や中国大連の銀行建物など、国内外を代表する建築物に携わる一方、富山県内の施設・民家の土蔵・絵馬など幅広い作品を残しました」とも。
「竹内源造記念館」には、「アカンサス模様の装飾鏝絵」や、日本最大の鏝絵作品である「「双龍(そうりゅう)」、「壁面から60センチメートルにわたって盛り上げた技術は、現在復元することができないとされてい」る、「鳳凰の装飾があ」るとか。

 さらには、「目にガラスをはめる「玉眼(ぎょくがん)」の技法が取り入れられてい」る、「射水市二口にあった旧家の洋間を飾っていた唐獅子」なども。

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→ 「千光寺の観音堂」 「檀家の村人たちが寄進した扁額があ」るとか。「鏝絵細工を探す旅 ~ 黒漆喰を巧みに使い色彩効果が際立つ千光寺の蔵(富山県砺波市) 職人の遺した仕事」によると、「扁額を制作したのは竹内源造で、檀家の人たちが千光寺の土蔵に描かれたみごとな鏝絵に感動し、源造に制作を依頼したという扁額」だという。

 番組によると、源造作品を多く見ることが出来るお寺として、「千光寺(せんこうじ)」が紹介されていた。
千光寺 (砺波市) - Wikipedia」によると、「千光寺は、富山県砺波市にある真言宗の寺院」で、「開基は大宝3年(703年)といわれ、安居寺(南砺市)とともに砺波地方でもっとも古い寺とされる」とか。
 また、「浄土真宗の多い富山県にあって真言宗の寺院は珍しく、その中でも特に古い伝承と多くの寺宝を保持しており、越中真言の古刹として著名である」らしい。

鏝絵細工を探す旅 ~ 黒漆喰を巧みに使い色彩効果が際立つ千光寺の蔵(富山県砺波市) 職人の遺した仕事」によると、「一時は、皇室の勅願所として隆盛を極めましたが、永禄年間(1558-70)に越後の上杉謙信勢の兵火ですべて焼け落ちました」とか。

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← 千光寺の土蔵で見ることが出来る、鏝作品「丹頂鶴」。テレビでも紹介されていた、番(つがい)の鶴は、浮彫風で、迫力がある。 (画像は、「鏝絵細工を探す旅 ~ 黒漆喰を巧みに使い色彩効果が際立つ千光寺の蔵(富山県砺波市) 職人の遺した仕事」より)

 さらに同上のサイトによると、「観音堂に檀家の村人たちが寄進した扁額があります。扁額を制作したのは竹内源造で、檀家の人たちが千光寺の土蔵に描かれたみごとな鏝絵に感動し、源造に制作を依頼したという扁額です」とある。

 千光寺の存在も、鏝絵を芸術の域にまで高めた竹内源造なる人物のことも、昨日、たまたま視聴したテレビで初めて知った。地元・富山の人はみんな知ってるのだろうか。常識なのだろうか。
 我が郷里の富山のことなのに、まだまだ知らないことがいっぱいありそう!

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2016/09/20

クレーの無垢なる世界

 寒い! ついこの間まではパンツ一丁だったのに、夕べはとうとう長袖のシャツを羽織るように。季節は奈落の底へ落ちるように、秋へ、冬へ!

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→ パウル・クレー(Paul Klee)『Nachtfaltertanz』(1923) (画像は、「クレー「綱渡り師」 - 足立区綾瀬美術館 annex」より) 

 ある本を読んでいたら、興味深い線画を見つけた。どこか、弥生式の壺か甕に刻まれた、人間か動物の絵を彷彿させるような絵。
 ネットで同作品を探したが見つからない。
 ただ、その最中、「綱渡り師」に再会。

 実は、小生の寝室には、もう、二十年以上、パウル・クレーの「Seiltänzer(綱渡り師)」(1923)の絵(複製画)を額に入れて飾っている。この絵を観ながら創作を試みたことも。

 欧米の画家の中では、パウル・クレーの絵が一番、好き。
 極度に抽象化されているようだが、その実、親しみやすさというか、親近感のようなものを抱かせてくれる。
 何処か、なつかしい。天使が舞い降りて、クレーの絵の中で息づいているようだ。

 ある本というのは、クレー著の『造型思考(上)』である。
 クレーなりに、懸命に造型理論を語っているのだが、小生にはどこか空回りしているように思えてならない。
 というか、理論の書じゃなく、ある種の詩文、モノローグに感じられてしまうのだ。

 むろん、自分の理解力、咀嚼力の不足がそういう印象を抱かせるのだろう。
 
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← 「蛾の踊り」 (原題 Nachtfaltertanz 英題 Dance of the Moth) (画像は、「パウル・クレー展 時間の無駄遣い」より) たぶん、冒頭と同じ作品だと思うが、色調が随分と違う。

 でも、クレーが一端、彼の理論(なるもの)によって(かどうか)絵を描き始めると、ほんのちょっとでも、線が刻み始められると、そこには理論(理屈)などを遥かに超えて、絵としての生命が息づきはじめ、どんな理屈よりも雄弁に天使の世界を印象づける。

 常識や世間的制約に雁字搦めとなったそんじょそこらの人間には、夢の中ですら手の届かなくなった、天使の世界、純粋無垢な世界、学校や大人に汚される以前の幼子の世界が、忽然と、でも厳然とそこに現出させてくれる、それがクレーなのだ。

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2016/09/18

「ロボットの脅威」 あるいは人間無用の社会

 いよいよ九州に近づきつつある台風16号に刺激を受けて、活発化する秋雨前線の影響で、ここ富山もずっと雨である。
 外出も買い物だけに留めるしかない。

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← マーティン・フォード著『ロボットの脅威 多くの職が奪われる未来』(松本剛史訳、日本経済新聞出版社) 

 家では、だから、落ち着いて静養と読書に専念できる。
 ところで、今夏は不思議な夏だった。
 というのも、今夏は、一度も蚊取り線香を使わなかった。というか、その必要がなかった。家の中では、カは一匹も見つからないし、刺されなかった。これから現れる? よその家はどうだったんだろう。
 異変なのか、吾輩の血が栄養分が足りないということなのか。

 さて。車中では、パウル・クレーの『造形思考(上)』(ちくま学芸文庫)を読んでいるのだが、自宅ではジョイスの『ユリシーズ Ⅲ』を主にベッドで、さらに、マーティン・フォード著の『ロボットの脅威 多くの職が奪われる未来』を一昨日から読み始めたところ。

 この『ロボットの脅威 多くの職が奪われる未来』は、実に面白い。
 ある意味、深刻な内容なので、面白いなんて、呑気なことを言っておられないのだが、暗澹たる気持ちにさせられつつも、読む手が止まらない。

 本書の内容案内によると、「急速に進歩する情報技術がもたらす人工知能、ロボット、ソフトウェアの進化は大量の失業、所得格差の一層の拡大をもたらし、経済、社会に破壊的な影響を与えずにはおかない」とかで、深刻な話が縷々語られている。

 題名は、「ロボットの脅威」なのだが、急発達の度合いが加速するコンピューター技術(自動化技術)の齎す驚異の社会なのである。
 過去、技術の発達は、産業などの合理化を実現すると同時に、一定の雇用をも生み出してきたが、ロボット(コンピューター)の発達は、合理化・省力化が進んで、ルーティーンワークのみならず、知的労働をも(労働者をも)無用にしつつあるという現実が、一層、明確化してきたと著者は言う。

 労働集約的産業の典型(の一つ)だった農業ですら、人手をどんどん、不要のものとしつつある。ブドウなどの果物を収穫するのは、人の手を借りるしかなかったのが、収穫するソフト(とマシン)が開発され始め、人間が最後に携わる領域すら、人が駆逐されつつあるという。

 人手不足を補うという意味で、ロボットなどの利用が喧伝されるが、実際には、そもそも人間が労働力として、必要がないんじゃないか、という事態がもうそこまで来ているという。
例えばファストフード店での単純労働は、あまり高いスキルを持たない労働者の重要な受け入れ口の一つだった。しかし自動化が進めば、肉を焼いたり、注文を受けたりなどの作業がロボット・自動化技術に肩代わりされ、多くの労働者が職を失うと本書は危惧する」のだ。

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← トマ・ピケティ著『21世紀の資本』(山形浩生/守岡桜/森本正史 訳 みすず書房)

 本書は、ある意味、一時期話題になった、トマ・ピケティ著の『21世紀の資本』での、「経済的格差は長期的にどのように変化してきたのか」の一端を、加速度を増して発達するロボット技術(自動化技術)の側面から傍証する著とも言えるかもしれない。
 なんて、まだ冒頭の数十頁を読んだだけなのだ。本書はこれからいよいよ佳境にはいるはず!

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