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2016/12/27

原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈』に冷や水を浴びせられる

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← 原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈』(講談社学術文庫) 「ローマ文明やキリスト教以前の「最初のヨーロッパ人」はどこへ消えたのか? ストーンヘンジに代表される巨石文化、渦巻きや植物の華麗な装飾文様、妖精や小人などの伝説…「もうひとつのヨーロッパの起源」として、近年注目されている「ケルト文化」。EUなど欧州統合のアイデンティティとして、また近代西欧文明への批判として復興の気運をみせている「ケルト」の実像を、古代から現代にヨーロッパ史の中で明らかにする」というもの。けれど、「大陸からブリテン諸島へ移住した古代ケルト人は、ローマ人やキリスト教徒に追われてアイルランド島にのみしぶとく生き残った――と思われているからだが、最近の研究では、この「常識」が否定されつつあるという」残念な研究成果などが示されている。アイルランドの作家たちに何処かしらケルト(の末裔)の匂いを嗅ぎ取ろうとしていた、自分の勝手な思いがあっさり覆されて、ちょっと残念に感じた。その意味で、ケルトというより、ヨーロッパに最初にやってきた人々の、キリスト教やギリシャ・ローマの思想や文化に影響され、呑み込まれる前の古層の文化の残響を辺縁の地などに見出そうというのが本書など、最新のケルト研究の意義なのだろう。いずれにしても、脈々たるケルトの水脈なんて、まして、ケルトの末裔なんて、夢の夢ってこと。

 缶入りのコーンポタージュ、飲み干そうとしても、缶には、コーンの粒が何個か残る。見えているのに、出てこない。悔しい! 車の中なので、缶を振り回すわけにいかんし……なんて呟いたら、「飲み口の下あたりをへこませるといい」なんて、レスを戴いた。
 なるほど、今度、トライして、最後の一粒を拾いきり食べきることに成功するまで、買い続けるぞ!

 自分の中の臆病な部分。殻に閉じ籠った自分。保育所時代には強烈な自覚があって、自分の人生に対して投げ遣りになってしまった。心を開くことへの怯え。人と和することへの恐怖。
 吐きたくなるほど孤独に苦しんでも、孤独の殻は破れない。そんな頑なな自分だから、人生のパートナーなんて、夢の夢の話なのだよ。
 でも、そうないいながら、誰もいない一人の部屋で、人恋しいとか、人肌恋しいとか、声にならない声を呟いている。

 忙しさにかまけて、宝くじ、買い損ねた。今年こそ、初めて、宝くじを買うつもりでいたのに。
 今頃、10億円の夢、見ていたはずなのになー。

 一昨日だったか、何処かの市長と副市長が日中、議会を抜け出して賭けマージャンをやっていた。麻雀をやる以上は、カネを賭けるのは当たり前だろうって、開き直っていた。その無神経さに呆れた。
 先日は有馬記念。競馬もバカラも、カネを賭けるのは当たり前。どっちも賭博だよね。要は法律に触れるかどうかの違いに過ぎない。さて、自民と維新は、カジノ(賭博)法案の成立に熱心。こういった連中は、例の市長らにも温かい目で見守るんだろうなー。

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→ 手作りのパイプ車庫。せっかく数日前、補修した天井のシート、27日未明までの強風で引っ剥がされた。上のほうに張ったダークグリーンのシート、天蓋の端っこでブランブラン。ああ、また、脚立に登って補修だよ。

 さて久々に、ケルト関連の本を読んだ。日本語で読める本格的な研究書である、原聖著の『興亡の世界史 ケルトの水脈』である。
 ケルトについては、十年程前、関連の本を集中的に読んだことがある。
 本ブログでも、関連の拙稿を幾つも書いてきた。以下、一部を抜粋する形で例示する。

蛍光で浮ぶケルトと縄文か」(2006/11/06):
 思うに、近代文明への危機意識とか、グローバリゼーションの荒波に飲み込まれそうな鬱陶しさ窮屈さ、そして科学・技術の限界などと言われたりもするが、しかし、だからといって過去を見直したり、見過ごされたもの打ち棄てられて来たものを掘り起こしたりするのはいいとして、過去の再評価という名の後退や過去という名の塹壕への退避であってはならないと思う。
 目の前に病気の人がいる時に、直したいという気持ちはともかく、だからといって呪術やお祈りや神秘さを装うばかりであっては、直るものも直らない。
 科学や技術という武器を手にした以上は、その営為を続け研ぎ澄ませていくしか、当面は道がない。
 温暖化が進む、だからといって誰もが縄文人の生活を送れるわけもない。

ケルトとはウロボロスの輪の積み重ね?」(2006/10/27):
 そもそも、自然との対比で人間が個的に屹立しているのではなく、人間もあくまで自然の一部なのであり、万有が織り成す複雑怪奇な迷宮の、その装飾のひと筋なのである。ギリシャ文化が人間賛歌の文化であり、人間像が倦まず弛まず作り続けられた、その意味でギリシャ・ローマ文化が常識的な意味で西欧文化の(一つの)淵源であるとしたら、文化潮流の川床には見え隠れしつつ、自然と人間を截然と分離することを論外とする文化・宗教・思想が連綿と続いてきた、その典型の一つがケルト文化だと言えるようだ。

ウロボロス…土喰らうその土さえも命なる」(2006/10/08):
 紹介した頁で小生が一番興味深かったのは、「ウロボロスは、自らの尾を喰らう円形の蛇または竜として表される。円は、永遠の循環、すなわち、終末が、始点につながる永劫回帰を象徴し、天地創成神話やグノーシス派では、「世界創造が全にして一であること」を示す象徴として使われている。また、錬金術においては、原初のカオスに対立する、秩序世界や、宇宙の永続性や循環性を象徴するという」という、まさに、後段の「錬金術においては、原初のカオスに対立する、秩序世界や、宇宙の永続性や循環性を象徴するという」点にある。
 なるほど、ウロボロスは、「秩序世界や、宇宙の永続性や循環性を象徴するという」コスモスそのものの象徴なのだった。

オシアンの夢…目を閉じてこころ澄ませて聴くケルト」(2006/10/28):
 ナポレオンやヒトラーらを駆り立てたもの。それはケルト文化、あるいはヨーロッパ文化の表層の流れを時に逆巻く波と嵐の只中へと変えてしまう自然。常には辺縁の地に追放され、闇の奥に拭い去り封じ込めたはずの自然そのものの逆襲なのではないか。
 人間と自然とが截然と分けられるのではなく、人間も際限なく枝や蔦の絡まりあった、生物と無生物とが輪廻する自然の中に飲み込まれている織り込まれた文様の一筋に過ぎないのであって、つまりウロボロスの頭であり尻尾であり本体でもある自然が余所行きに澄まし込んだ人間中心文明への嘲笑、強烈なしっぺ返しなのではないか。

その他、ケルト関連拙稿:
ケルト…エッシャー…少年マガジン」(2006/10/18)
『ストロングボーとイーフェの結婚』とケルト」(2013/01/10)
ケルトの装飾表現再考」(2010/11/09)

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