灯火親しむべし…どころじゃなく
いよいよ十一月。霜月とはよく言ったものだ。
← 縁側の廊下。外は築山風の内庭。廊下は、今は掃除して綺麗だが、風が強いと葉っぱが舞い込むことも。鳥の糞はしばしば!
家の中は寒い。部屋が幾つもあるし、築60年以上なので、家の中にも外の風が吹き過ぎていくような始末。縁側の廊下には、風の強い日の翌日など、葉っぱが落ちていることも。それどころか、なぜか、鳥の糞が落ちていることはしばしばである。
むろん、古びているとはいえ、ガラス窓があるのだが。
ただ、このガラス窓は一体、いつ頃の物なのかわからない。あるいは築60年の当初からのものなのか。
遠い昔、雨戸があったような気もするが、物心ついてからは、ガラス窓だけになったようだ。
エアコンも30年ほどのもの。灯油ストーブは、木造家屋には怖いし。
石油ストーブは、気密性の高い作りだと、酸欠や一酸化炭素中毒が怖いが、我が家では、ありえない! のだが。
炬燵もないってのがやばいなー。
家の中が寒いと読書も進まない。手が悴むし。
なのに、読みたい本が山積み。
昔の人は、火鉢や炭の火だけで、障子の部屋、蝋燭の灯で読んでいたのだろう。
武士じゃなくとも、それこそ身を切るような寒さの中、きっと、背筋をピンと張って、座布団に座って。
深沈たる夜、孤影が障子にポツンと。
書物に、つまりは書を書いた先人に向き合っている気合で、一文字一文字を追っていったのだろう。
黙読もしたかもしれないが、声を出して読むことも当たり前だったかもしれない。
師の前で正座する覚悟だったろうし、書物などは貴重品だったろうし。
灯火親しむべしという言葉をふと思い出した。ホントなら今こそ、そんな時期のはずだが、秋らしい澄み渡った快晴の日にはなかなか恵まれない。
さて、その「灯火親しむべし」という言葉の出典は、「灯火親しむべし:意味・原文・書き下し文・注釈 - Web漢文大系」によると、韓愈「符読書城南」(『全唐詩』341巻)だという。
意味合いは、想像通り、「秋の夜は灯火の下で読書をするのにふさわしい」のようである。
原文を読み下すと、「時(とく)秋(あき)にして積雨(せきう)霽(は)れ、新涼(しんりょう)郊墟(こうきょ)に入る。灯火稍(ようや)く親しむ可く、簡編(かんぺん)巻舒(けんじょ)す可し」となる。
この漢詩からすると、原文においても、降り続く雨(雪)が止んで空がすっきり晴れ、秋のはじめの涼しさが山間の里にもやってきて、灯火の下で読書をするのにふさわしい秋の夜長の季節がやってきた、ということのようで、雨続きの日が続いていたのが、ようやく晴れ渡る秋の日に恵まれた……つまりは、今日この頃の陽気に合致する漢詩なのかもしれない。
秋の長雨は、梅雨の長雨よりも時期は長いというし、だからこそ、秋の澄み渡る空は気分爽快なのだろう。そんな秋の夜長を過ごすには、書物に向かうのが一番なのだろう。
ただ、この漢詩では、秋のはじめの涼しさを詠み込んでおり、霜月という晩秋の寒さが背景になっているわけではない。
ということは、新涼の候はとっくに過ぎた、秋も深まった頃には、昔の人も、とてもじゃないが、灯火親しむべし…じゃなく、炭火親しむべしとなっていたのかもしれない、なんて軟弱な自分は勝手に読み替えてしまうのである。
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