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2016/11/08

J・M・クッツェーの批評精神 翻って自分の創作は

 今日も庭木の剪定。主に成長の早い夾竹桃など。脚立に登って、更に高枝切鋏を使って。曇天だったのが、次第に小雨が降りだして、せっせと作業。汗なのか雨水なのか、体がびっしょり。

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← J・M・クッツェー著『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』(くぼたのぞみ訳 装幀:間村俊一  INSCRIPT) 二週間以上を費やして読了。 「自伝はすべてストーリーテリングであり、書くということはすべて自伝である」(クッツェー)!

 この連休中、二日は秋晴れに恵まれ、外出日和。でも、生憎と畑や庭仕事が山積みになっている。何処か美術館とか行ってみたいけど、自制。
 とりあえず、最低限の剪定は終えたけど、雪吊りや雪囲いまではできなかった。

 昨年の六月から通っている内科のお医者さんに、運動不足を何度も指摘されている。もっと歩きなさいと。でも、雑用がありすぎて…なんて、言い訳するばかり。
 なので、せめて、庭仕事などで体を動かしているのだ。運動になるのかどうかわからないけど。

 さて、連休中、ぼちぼちと読書。今朝は、半月以上を費やしていた、J・M・クッツェー著の『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』を読了。
 三つの作品のいずれも、それぞれの味わいがあって、面白かった。
 面白いなんて、気軽な感想じゃまずいんだろうな。

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→ 富山市には、こうした古びた路地裏、飲み屋街が少ない。そこが町の味わいという点で、ちょっと物足りない。空襲で市街地が全焼したから、街づくりが新しいのはやむを得ないけどさ。

 なんたって、訳者も強調しているように、「クッツェー作品は無批判に登場人物とその行動に自分を重ね、共感してストーリーを読み、消費することをなかなか許さない。明晰かつ簡潔な強いことばで一気に読ませながら、読者の側に知らず知らず自省へ誘う契機を手渡すからだ。手渡された側には、歴史や土地をめぐるみずからの立ち位置を見直す沈黙が醸し出されていく。そんな批評空間へのきっかけを文章内に埋め込む作家、それがクッツェーだ」というのだから。

 クッツェーの姿勢を一番、示している一言は、「自伝はすべてストーリーテリングであり、書くということはすべて自伝である」だろう。

 生まれながらに多言語の環境にあり、しかも、自国語ではなく、親には英語の使用を強制され、学校では違う言語を使わないと仲間外れにされる(使っても、異分子扱いされるのだが)。
 そうした環境に生まれ育てば、言語(など)の使用には自覚的になり、反省的になり、批判的にもならざるを得ないのだろう。
 だが、そうした環境を生きても、だれでもが、クッツェーになれるはずもない。

 翻って、自分はというと、言語の使用に自覚的にならざるを得ない、別の契機があったとは言える。
 それは、言語障害だったり、異貌意識だったり。
 生まれ育った地に、愛着がないわけではないが、平板な街並みに、思い入れがなかなか難しい。緑溢れる光景に恵まれたわけではないし、田園地帯でもなかったし(生まれる前までは農村だったのだろうが)、かといって、都会とは縁遠い。

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← 左側の小銭入れが長年の使用で縫製が切れた。そこで右側のほうを今日から使う。どちらも父の遺品。右側も擦り切れている。そうそう、財布も父の遺品。今、三つ目を使用中。帰郷して8年余り。財布も小銭入れも買ったことがない。でも、そろそろ最後かな。

 何をとっても中途半端な、やや閉鎖的で内向きの、小さなお山の大将気質の地域性(こうした視野狭窄的な傾向は富山全般に当てはまるかもしれない)。
 ただ、自分の場合、器質に由来するのか、ある面で極端になっているのかもしれない。

 昔、本を出した時、奥付の著者略歴のに、「デジタル社会の中、稀薄化する現実感覚や肉体的存在感の恢復をテーマとしている」なんて書いた。
 さらに、蛇足として、「ヴォルスやフォートリエなど、抽象性と生々しさが緊張しつつも共存する絵画に創作上の発想の端緒を得ることがある」なんて書いたのは、今となっては愛嬌であると思うが。

 つまり、自分が創作に傾注するとしても、生々しい現実性や思い出や人間関係から、何物かを抽出するのではなく、無の時空から、真空の時空から、幽かな生の気配を、気配の微粒子を摘み掬い上げるといった作業しかできないだろうということだ。

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