カサコソと秋の音するはぐれ道
都甲幸治著の『生き延びるための世界文学』を読了した。実は、J・M・クッツェー著の『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』をゆっくりじっくり読んでいるところで、大部な本の息抜きのつもりで読み始めたのだが、予想外の面白さ(← 生意気!)に嵌まってしまった。
← 都甲幸治/著『生き延びるための世界文学 ―21世紀の24冊―』(新潮社) 「名作は世界中で日々生まれ、その大半はまだ訳されていない──」!
本書の案内によると、「名作は世界中で日々生まれ、その大半はまだ訳されていない──」なんてあって、実にキャッチ―なコピーだ。
本書は雑誌に連載されていた文章を編集したもので、その後、幾つかは翻訳されてきている…ようだ。
ただ、仮にみんなが訳されても、その大半は、読む機会を作れずに、つまりは出合わずにすれ違っていくに違いない。
文学に限らず、音楽も美術も詩も彫刻も舞踏も、映画も舞台もその深浅や彫琢の優劣の差はあっても、今も次々と作品が生まれ続けている。
あるいは、作品という形にならない、まさにナマの想が寄せては返す波のうねりのように海面の波間に浮かんでは沈み、やがては溺れていくか、海中の生きものたちの餌食となって消えていくのだろう。
文字通り、海の藻屑と成り果てる……
→ 96歳で即身仏になった真如海上人 (画像は、「真言宗 天照寺 仏教心理学14 即身成仏と意識の転変 八識から五智へ」より) 「知られざる日本のミイラ信仰…永き苦行の末の『即身仏』という驚異 - NAVER まとめ」など参照。
世界の何処かで必ずのように、戦争やテロがまさに今、起きているし、途切れることなく犠牲者は生まれている。
それが戦争の形でなくても、家庭で会社で、路上で、ベッドの上で、ビルや古壁の裏側で、声にならない声が、喚きや呻き、嘆き、時には歓喜と見紛う怨嗟の叫びが、そんな呻吟するあられもない姿が曝け出されている、あるいは闇の壁に向かって血反吐のように吐き出されているに違いない。
いや、呻吟ばかりじゃなく、あまりに何気ない日常の中の心の揺らめきが陽炎のように、昼間の幽霊のように彷徨しているに違いない。
声なき声を拾う、形にならないものを、その触れればたちまち崩れ去るような、繊細な時の溜め息が生まれては、誰にも気づかれることなく消え去っていく。
答えは風の中にあるのか、風に答えは吹き流されるだけなのか。
← J・M・クッツェー著『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』(くぼたのぞみ訳 INSCRIPT) 「自伝はすべてストーリーテリングであり、書くということはすべて自伝である」(クッツェー)。
文学って何だろう、哲学って何?
ただただ生き延びるためにあるということなのか、あるいは生きているギリギリの証左なのだということか。
表現するという営為は、つまりは、即身仏を志す者の鳴らす鈴の音だとでも?
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