ジョイスとプルーストと
ジェイムズ・ジョイス著の『ユリシーズ』、全四巻をようやく読了した。出来る限り、注釈も参照しつつなので、分量的にはかなりのもの。二か月を要したかもしれない。
← ジェイムズ・ジョイス著『ユリシーズ〈4〉』 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
本書を読んで感じたこと、というより考えさせられたことは、小説とは何かだった。
読了して考えさせられたのではなく、 読み進めつつ常にそうした問いが投げかけられているようだった。
ひたすら言葉遊びの連続であり、古今の古典や名作に限らず、ありとあらゆる作品が場面との同時進行で参照されつつ、神聖から卑猥や猥雑まで、多くはあまりに日常的な単調さ、退屈さがこれでもかと描かれる。
ジョイスが目指したのは何なのか。過去の文学や宗教や哲学、伝統、つまりは既成の価値観の転倒、だが、転倒しつつも、嘲笑や冷笑で高笑いするのではなく、徹底して日常の深浅を描きつつ、日常の一回性を、そっくりそのままに切り取って指し示すことだったのかもしれない。
近代の小説の描こうとするものは何か。それは、過去のどんな作品でも描かれたことのない、その作者でなければ決して描けない世界。
だとしたら、他人には決して描けないだろう、確実に新奇なる世界とは、まさに作者が見聞きしている日常そのものを、徹底してありのままに描くことだろう。
いわゆる、小説として従来求められてきたストーリーもプロットもまるで頓着せず、ただ、どんなに平凡でありきたりに思えようと、日常のある断面を全知全能を傾けて掴み取り描きつくし指示して見せる。
聖も性も高踏も低俗も、緊張も弛緩も、間延びも喧噪も、何もかもが同時並行して存在するのが日常なのであり、ジョイスにとっての文学は、その一回限りの日常をありのままに描きつくすことなのではないか、そんなことを感じたりした。
小生は、五年ほど前から岩波から翻訳が出つつある、吉川訳のプルースト『失われた時を求めて』を読んできている。最新刊も出たばかりで、既に予約済みである。
こちらのほうは、まるでジョイスとは違って、プロットもあればストーリーもあるし、その都度の場面をフォローするのは容易だし、場面を脳裏に鮮明に描ける。
けれど、ある意味、ジョイスとプルーストは同じことをやっているようにも感じられた。
現にあることをそのままに描き切ること、そのことである。
← プルースト【作】『失われた時を求めて〈10〉囚われの女〈1〉』(吉川 一義【訳】 岩波文庫)
方や、腕力と風刺と諧謔の精神とで、言葉の可能性の限りを尽くして、現実をミキサーにかけて、混沌の坩堝に放り込んだとすれば、片や、繊細の精神の限りを尽くして、ビロードのような微細な言葉の映像に現実を移行させていく。
言葉という道具を使って、表現の可能性をとことん極めた、そんなふうにまとめてしまうと、なんだつまらない結論だことと、嗤われそうだが、しかし、ジョイスとプルーストとの二人で、文学の極北を渉猟してしまったのだとは言えそうな気がする。
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