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2016/10/31

小鳥は何処…富山マラソンのこと

 茶の間の窓外の朽ちかけている農機具小屋。名の知れない樹木などが勝手に育っている。その小枝に赤っぽい小さな鳥が止まっているのを発見。あちこちちょんちょんと移動するが、最後は小枝にじっとしている。小鳥……子供の鳥のように感じる。

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← 葉っぱの陰に隠れるように、オレンジ色の物体が見える。姿形ははっきりしないようだが、小鳥だったのだ。あれから、どうしたんだろう……

 しばらくすると、同じ色柄の小鳥が飛来してきた。用心深いのか、小屋の中には入らず、外側を移動している。恐らくは親鳥、母鳥なのだろう。迷子になった小鳥を探しに来たのに違いない。懸命に探して回るが、親鳥は小屋の外、小鳥は小屋の中の木々の小枝に葉っぱに隠れるようにして留まっているいるばかり。親鳥よ、思い切って小屋の中を探せよ! って言いたいけど、言えるはずもなく。

 親鳥(母鳥)は、小屋を去って、近くの農作業小屋の庇の下に止まったり、小屋の屋根をちょんちょんと歩いたりする。でも、やはり、小屋の中へは入ろうとしない。ああ、小鳥よ、何故、鳴き声を上げないのか。用心して息を潜めているのか。母鳥もそうだ、母の声を大きく発したら、小鳥だって気づくんじゃないか!

…けれど、やがて母鳥らしい成鳥は何処かへと飛び去ってしまった。そして小鳥は、小屋の中の何かの樹木の小枝に息を潜めて留まっているばかり。日が暮れてきたよ。どうするの? 明日の朝まで、食べるものも自分で見つけられずに、じっと夜の深さを耐えていこうととでも。……朝になるまで生き延びたって、その先はどうするの?

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→ 夕方の環水公園。ここが富山マラソンのゴール地点。この公園は、富山で一番の人気のスポット。

富山マラソン」を見物に行ってきた。走る人も多いが、見物人も多かった。三十代の頃までは、走るのに熱心だった。青梅マラソン(30キロ)にも参加し、完走したからね。

 学生時代も、キャンパスを20キロ走る大晦日のマラソン大会に飛び入り参加。運動なんてしていないのに、ぶっつけで走ったけど、上位入賞して、お酒をもらったことも。そういえば、ほんの数年前は、家の事情でフルタイムの仕事ができず、新聞配達で頑張っていたことも。汗だくで頑張ったんだよ。

 学生時代、ぶっつけ本番で走った…実は、アルバイトで新聞配達をしていた! そうでないと、走れない!
 小生は、学生時代以来、一貫してガテン系のアルバイトばかり。

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← 環水公園っは岩瀬浜に続く運河の終着点であり出発点。運河には、遊覧船が走っている。橋の上から撮影しているが、この反対側には、13,000名以上のランナーたちが、もう間近いゴール目指して最後のファイト! そうそう、青梅マラソンについては、思い出の記を書いたっけ:「青梅マラソンの思い出(前篇)」「青梅マラソンの思い出(後篇)」 そのほか、マラソン絡みの記事を書いている:「箱根駅伝…観戦記?」「同人誌(?)を出した頃」「東京国際女子マラソン…感動のラストシーン 」 

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2016/10/28

永井路子著『岩倉具視―言葉の皮を剥きながら 』読了

 数日来、読んできた永井路子著の『岩倉具視―言葉の皮を剥きながら 』を読了した。

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← 永井路子著『岩倉具視―言葉の皮を剥きながら 』(文春文庫)

明治維新の立役者の一人、岩倉具視。下級公家に生まれ、クーデターの画策などで何度も追放されながら、いかに権力の中枢にのし上がったのか」といった本。
「「尊王攘夷」「佐幕」といった言葉を剥きながら、新たな岩倉像を立ち上げた永井文学の集大成」というが、それもさることながら、読んでいて感じたのは、幕末から明治維新政府の立ち上げに至る経緯の、想像以上の複雑さである。
 テレビドラマ的には、坂本龍馬や西郷、大久保らの英雄の活躍という物語が面白い。司馬遼太郎史観というやつだ。分かりやすいし。

 あるいは、幕末に活躍した新選組という、政府が雇った、官製版のテロリスト集団を英雄視したり。
 どんなテロ集団だって、それこそISだって、一人一人に焦点を合わせたら、そこにはドラマがあるだろうし、言うに言われる動機もあろう。ただ、嫌いな集団だと、想像力を働かせたくないだけ、とんでもない奴らだと、一言で片づけたいだけだ。

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← 『特命全権大使米欧回覧実記 1 普及版 アメリカ編―現代語訳 1871-1873 (1)』( 久米 邦武 (著), 水沢 周 (翻訳)  慶應義塾大学出版会; 普及版) 明治4年(1871年)に派遣された岩倉使節団の記録。アメリカなど海外勢が、日本について徹底的に調べたように、日本も明治維新政府を立ち上げるにあたって、海外事情を調査研究した。

 幕末から維新にかけては、幕閣も将軍も天皇も諸大名も上級武士も下級武士も、町人も商人、農民も、それぞれに表立って、あるいは陰で活躍し、暗躍し、語られぬドラマとして消え去っていったのだろう。
 小生の畏敬する島崎藤村の、「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる『夜明け前』は、まさに激動し激変する幕末の怒涛の動きに翻弄される、生真面目な村の本陣・庄屋の当主の苦悩と絶望に至る物語だ。
 恐らくは、当時、日本中に大なり小なり、そういった時代に翻弄された人々が居たに違いない。
 
 同時に、当時、日本の趨勢を左右した勢力に、アメリカやイギリス、フランス、ロシアなど、外国の勢力も見逃せない。
 なんといっても、どんな政治運動も、資金がないと、身動きが取れないのだから。

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← 島崎藤村著『夜明け前 〈第1部 上〉 (改版)』(新潮文庫) 拙稿「藤村『夜明け前』を読む 」など参照のこと。

 竜馬らの資金は何処から出ていたのか。
 政治体制の構築に、日本の先覚者が関わったと同時に、アメリカやイギリスの思惑が深く関わっていたに違いないのだろうが、本書もだが、大概の幕末モノにも、外圧として、変革の契機程度にしか扱われていない。
 日本の運命に、きっかけはともかく、行く末にまで深く関与していたなんて、ナショナリストとしては、眼中に入れたくはないのだろう。
 でも、M・C・ペリー著の『ペリー提督日本遠征記 上 』などを読むと、ペリー(アメリカ)は、日本に来る前の段階で、驚くほどに日本について徹底して調べている。その結果、日本については、日本に来る前の段階ですでに、植民地支配ではなく、日本の政府(政治体制)に背後から関わる、間接支配(関与)のほうが合理的だと判断していた模様だ。
 だとしたら、アメリカの資金(や思惑)が相当に、幕藩体制から維新政府への移行に関わったはずなのである。

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← M・C・ペリー著『ペリー提督日本遠征記 上 』(監訳:宮崎壽子 編纂:F・L・ホークス 角川文庫) 「喜望峰をめぐる大航海の末ペリー艦隊が日本に到着、幕府に国書を手渡すまでの克明な記録。当時の琉球王朝や庶民の姿、小笠原をめぐる各国のせめぎあいを描く。美しい図版も多数収録」とか。 (情報や画像は、「株式会社KADOKAWAオフィシャルサイト 」より)。挿画もある。幕末から維新前後、明治から大正など、古き日本の世相を知るのが好き。ペリーは、開国が欧米のみならず、日本のためになると、本気で思っている? 上下巻で1200頁以上。実に面白かった。

 本書を読んだのは、前々から、黒幕ってわけじゃないが、大久保や西郷はともかく、公家の末端だった岩倉具視という曲者が気になっていたから。
 読了して、彼の暗躍(?)ぶりも面白かったが、幕末から明治維新への移行の経緯は、想像以上に複雑な要素(人物や勢力)がカオス的に関わっているということを実感させられた。

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2016/10/26

柿の実からサンタまで

 久しぶりに風のない爽快そのものといった秋晴れに恵まれた。外出日和だが、生憎、出かける目当てがない。ここは、野暮ながら、庭仕事に励むしかない。やらないといけない、庭や畑仕事がいっぱい残っている。
 今日は、画像へ付した説明にも書いたように、柿の実の収穫。
 もう、収穫には遅いぐらいだが、いつまでも手をこまねいているわけにもいかない。

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← 本日は、秋晴れ。今のうちにと、ようやく柿の実の収穫作業。今年は、実の生り方が少な目。それでも、大きめの実を40個余り収穫。一人では食べきれず、とりあえず、半分を親戚の家に。 さて、残りはどうする?

 実を言うと、栗の実の収穫は、とうとう何もできず仕舞い。クリの木には実が残っていない。地上を見ると、トゲトゲの実が散在している。見事なまでにどれも実が切り裂かれて、中身がカラになっている。
 切り裂かれたのか、それとも、実の肥大に自然に割けるものなのか。

 ちなみに、キュウイは、いっぱい生っているまま、今も健在。いつ、収穫したらいんだろう。

 今年は、柿の実の生り具合が弱い。写真でも分かるように、見るからに生っている実が少ない。
 今年の異常(?)といえば、例年、庭木の幾つかが、何かの害虫にやられて、葉っぱが食いつくされる。
 なので、発見次第、防虫剤を吹き付ける。

 それが、今年は、例年、やられる柿などの木々は葉っぱが冒されることはなかった。
 代わりに(?)、クスノキの葉っぱが、五月から六月にかけて、どんどん、無くなって行って、六月末には、とうとう葉っぱは見る影もなく、枝だけが風に吹かれている始末。何かの病害虫……あるいはウイルスにやられたのだろう……か。

 ところで、J・M・クッツェー著の『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』(くぼたのぞみ訳 INSCRIPT)をゆっくりじっくり読んでいるのだが、合間に息抜きに、佐治晴夫著の『14歳のための宇宙授業 相対論と量子論のはなし』を読んでいる。
 まさに中学生向きの本。だが、巻末には結構高度な数式が載っている。中学生でも、才能のある人は理解しちゃうんだろうなー。
 その本の中に、気になるくだりがあった。

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← 佐治晴夫著『14歳のための宇宙授業 相対論と量子論のはなし』(春秋社) 「夜空の星の煌めきからクォークやゲージ粒子まで、このかけがえのない世界を記述する現代の科学理論の2つの柱をわかりやすく詩的に綴る宇宙論のソナチネ」だって。なるほど、結構、情緒溢れる文章がそれぞれの章の冒頭に載っている。

 ゲーリー・ホロヴィッツとバジル・キサントポーラスの二人が、相対性理論の立場でサンタの秘密を解いた、とあるのだ。
 詳しくは、「なぜ、サンタクロースが私たちに見えないのか?」のなぞを解いたというのだ。
 が、説明は付してない(まして、参考文献も)。
 ネット検索してみたら、下記のサイトが浮上してきた:
読中感3 硝子のハンマー 永田町で働くサラリーマンの読書日記(脱線多し) - 楽天ブログ」:

世界中に20億の家庭が一様に分布しているとすると、クリスマスイヴの24時間に全家庭をまわるには、1家庭につき2万分の1秒しか立ち寄れず、光速の4割ものスピードで走り回るサンタに、わたしたちは気がつかないというのです。
【別冊「数理科学」相対論の座標~時間・宇宙・重力(1988年サイエンス社)から岡村浩「ブラックホールと一般相対論(1)より】
(I 見えない殺人者 p.298)

単純計算ですが、すでに世界人口が70億人に達している。世帯数は定かではないが、
1世帯当たり3人としてもサンタクロースの移動速度は30年前と比べて16%アップ!
ってことは余計に見えにくく、というより気づきにくくなってるってことだ。


 なんだ、そういうことなら、本書に書いてあるじゃないか!

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2016/10/24

カサコソと秋の音するはぐれ道

 都甲幸治著の『生き延びるための世界文学』を読了した。実は、J・M・クッツェー著の『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』をゆっくりじっくり読んでいるところで、大部な本の息抜きのつもりで読み始めたのだが、予想外の面白さ(← 生意気!)に嵌まってしまった。

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← 都甲幸治/著『生き延びるための世界文学 ―21世紀の24冊―』(新潮社) 「名作は世界中で日々生まれ、その大半はまだ訳されていない──」!

 本書の案内によると、「名作は世界中で日々生まれ、その大半はまだ訳されていない──」なんてあって、実にキャッチ―なコピーだ。
 本書は雑誌に連載されていた文章を編集したもので、その後、幾つかは翻訳されてきている…ようだ。
 ただ、仮にみんなが訳されても、その大半は、読む機会を作れずに、つまりは出合わずにすれ違っていくに違いない。
 文学に限らず、音楽も美術も詩も彫刻も舞踏も、映画も舞台もその深浅や彫琢の優劣の差はあっても、今も次々と作品が生まれ続けている。
 あるいは、作品という形にならない、まさにナマの想が寄せては返す波のうねりのように海面の波間に浮かんでは沈み、やがては溺れていくか、海中の生きものたちの餌食となって消えていくのだろう。
 文字通り、海の藻屑と成り果てる……

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→ 96歳で即身仏になった真如海上人 (画像は、「真言宗 天照寺 仏教心理学14 即身成仏と意識の転変 八識から五智へ」より) 「知られざる日本のミイラ信仰…永き苦行の末の『即身仏』という驚異 - NAVER まとめ」など参照。

 世界の何処かで必ずのように、戦争やテロがまさに今、起きているし、途切れることなく犠牲者は生まれている。
 それが戦争の形でなくても、家庭で会社で、路上で、ベッドの上で、ビルや古壁の裏側で、声にならない声が、喚きや呻き、嘆き、時には歓喜と見紛う怨嗟の叫びが、そんな呻吟するあられもない姿が曝け出されている、あるいは闇の壁に向かって血反吐のように吐き出されているに違いない。

 いや、呻吟ばかりじゃなく、あまりに何気ない日常の中の心の揺らめきが陽炎のように、昼間の幽霊のように彷徨しているに違いない。
 声なき声を拾う、形にならないものを、その触れればたちまち崩れ去るような、繊細な時の溜め息が生まれては、誰にも気づかれることなく消え去っていく。
 答えは風の中にあるのか、風に答えは吹き流されるだけなのか。

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← J・M・クッツェー著『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』(くぼたのぞみ訳 INSCRIPT) 「自伝はすべてストーリーテリングであり、書くということはすべて自伝である」(クッツェー)。

 文学って何だろう、哲学って何?
 ただただ生き延びるためにあるということなのか、あるいは生きているギリギリの証左なのだということか。
 表現するという営為は、つまりは、即身仏を志す者の鳴らす鈴の音だとでも?

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2016/10/23

ウグイスの名の謂れや苧環の草叢

 「ホーホケキョ」と大きな声でさえずるウグイス。その「ウグイス」なる名前は、「古くは鳴き声を「ウー、グイス」または「ウー、グイ」と聴いていて、和名の由来であるとする説がある」んだって。へえー、である。
 常光 徹 著『折々の民俗学』(河出書房新社)を読んでいたら、そんな話題が出ていたので、ちょっとメモ。

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← ホトトギスの花たちが今、真っ盛り。我が家の庭を彩るのは、シュウメイギクとホトトギスの花だけ。

 さて、昨日は、連休の初日ということで、庭仕事。
 過日、買ってきて置きっ放しになっていた、コンポストを裏庭の隅っこに設置する、あるいは庭木の剪定など、庭仕事に精を出し、汗びっしょり。
 と、そうした作業の最中に、ふと、そうだ、選挙(期日前投票)に行くんだったと思い出した。汗を拭い、下着も替えて、自転車で市役所へ。富山は、政治活動費の不正使用で政界が大揺れ。 

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→ 裏庭の隅っこに、ひっそりと、苧環(オダマキ)が。すぐ脇の苧環の群生から飛び地風に生えてきた。来春の開花まで、新秋と冬の季節とを超えないといけない。

 もう、二十年も昔に書いた小説に、何処かで聞きかじった苧環(おだまき)の花を登場させた。
 そのほんの数年後、自宅の庭で草むしりをしていて、なんと我が家に苧環の花が一叢、育っていることに気づいてびっくり。
 実物を見るのは初めてで、花の清楚な青と白の佇まいに心惹かれた。

 当時は、東京暮らしで、正月やお盆、五月の連休の際にしか帰省しないので、草の状態の苧環しか目にしていない。だから、雑草扱いしていたのだろう。
 草むしりし始めたら、草っぽいものは片っ端から、それこそ根っこから引っこ抜いていくので、あるいは雑草と共に葬り去ったのかもしれない。自分の不明に忸怩たる思いがある。

 さすがに、苧環の存在に気づいてからは、可能な限り大切にしている。除草剤も近辺には散布しないなど。
 すると、苧環の草叢が、最初の一叢を中心に、次々と生まれてきている。そのうち、あの一角は苧環の草叢になる……かもしれない。

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← 今日は庭仕事。庭木の剪定。その前に、雑草を堆肥(土)にするため、2台目となるコンポストを設置した。庭木の枝や幹用のコンポストが欲しいな。

 ところで、 「土人発言」警官に擁護論も、といったニュースがマスコミをにぎわせた。大阪出身の機動隊員の暴言。
 驚いたことに、大阪府知事が擁護論を展開。
  ヘイトスピーチする連中もいるし、本土の民間の間に沖縄の人々への偏見や差別意識を持つ人もいるのだろう。
 が、あの暴言は、機動隊員という権力の行使者の言動なのだ。権力者や当局の関係者と、一般人を同列に扱うのが筋違い。松井大阪府知事のタカ派的素性が分かるというもの。

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2016/10/20

民俗学のテーマは、山奥の村にだけ転がっているのではない!

 数日前、予約した本を引き取りに行った。ついでだからと、店内を物色していて、「雨の自然誌」と共に衝動買い。民俗(学)関連の本は好きで折々読む。柳田や宮本などなど。筆者は高知の方で、海も近ければ山も近く、峠道のような場所や由緒あるお寺にも恵まれている。

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← 常光 徹 著『折々の民俗学』(河出書房新社) 「民俗学のテーマは、山奥の村にだけ転がっているのではない。街場の日々の話題も丁寧に採集した、四季折々の暮らしの民俗学。「高知新聞」好評連載完結。貴重な「真覚寺日記」の紹介も」といった本。

 子供の頃は、一層、自然が豊かだったようだ。翻って、我が富山市(の中心街から遠からぬ場所)はどうだろう。田圃は疎らになり、畑も少なく、屋敷林も昔ほどにはない。あっても、ブロック塀に囲まれていて、中がうかがい知れない。塀の上から首を出している樹木に雰囲気を想像するだけ。

 富山は、富山駅を中心に、路面電車を走る界隈を中心にコンパクトシティを標榜している。富山駅を降りた路面電車に沿って、ビルやマンションが商店、飲食街が立ち並び、並木道も幾筋も交差していて、遊覧船までがあって、賑わうかのような町作りが進められている。観光客らの評判は、綺麗な町ね! というものが多い。

 綺麗と言われて困ることはないが、ある意味、中身が薄いということを言外に含んでいるようで、なにか忸怩たるものを覚える。これだけ、中心街を都会風に作りたてても、付け焼刃であって、夕方のラッシュアワーが過ぎると、一気に寂れた感が漂ってくる。町一番の繁華街の(はずの)商店街ですら、夜の九時を過ぎると、歩いている人は疎らになる。

 人影が少ないと、尚のこと、賑わいを求める人は来なくなる。富山市の進めているコンパクトシティ政策は、要するに、日本で進む東京一極集中を、まさに富山という地方で、富山駅周辺への一極集中というまさにコンパクト版を行っているに過ぎないと思う。

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→ 知り合いが、立山の称名滝へ。落差は日本一。十年以上前、自分も父母らと一緒にバス旅行の形で行ったけど、雨でボヤーとしか見えなかっただけに、うらやましい。

 富山県(や富山市)の人口を富山の中心街に集める一方、郊外の人口密度は一層、低くなっていく。山が自慢の富山なのに、里山はどうするんだ、駅から駅周辺や観光地を見る人に、薄っぺらな町作りを見せている一方で、山間地に取り残された人々は、一層、車だけが頼りの、孤立した寒村が増えていく一方ではないか。

 しかも、富山市ですら、人口が減る一方なのだ。

 ちょっと本書の中身から離れてしまった。ただ、本書のテーマでもある、「民俗学のテーマは、山奥の村にだけ転がっているのではない」という言葉に過剰に反応しただけである。

 富山市の中心街は、坂もなく、樹木でいっぱいの公園もなく(街路樹はあるけど)、由緒ある神社仏閣も乏しい。地元の人間は、車でちょっと走れば、山間部などへ行けるし、いやっというほど、森も林も田圃もある、ということだろうが、駅の周辺に森がないのは、町の印象を平板なものにする。

 平板な印象とは、物語性やドラマ性が乏しいということである。何処かの街角を曲がった途端、意外性のある区域に遭遇するとか、坂道を歩くとブラインドコーナーの先に思いがけない、想像力を掻き立てる館や瀟洒なマンションへの門に行合うとか、池があるとか、そんな陰影が乏しいのである。

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← もっと近くで称名滝(しょうみょうだき)を! 「称名滝|観光スポット|とやま観光ナビ」など参照のこと。落差日本一なのに、それほど有名でないのは、信仰の対象でもあるので、これまであまり宣伝に力を入れてこなかったから。

 陰影とは、その一角に何かの昔話が残ってるとか、歴史的ドラマとの関わりがあるとか、何か得体のしれない世界があるような気がするとか、何かしらのドラマ性だと思う。考えてみると、富山市の中心部は、空襲でほぼ全焼、全滅し、戦後、やっとのことで復興したもの。なので、戦争で過去と断ち切られてしまった。我が家もだが、戦争直後、一旦、更地になってしまって、戦前との繋がりが見えなくなってしまった、この事実が重いのかもしれない。

 関係者もだが、市民らも、賑わいを取り戻そう、創出しようとあれこれと工夫し、努力している。観光の目玉を作ろうと、それはそれは頑張っている。面白い町になるよう、自分だって何かしら協力したいと思う。アスファルトやコンクリートで直下の地面とは(田圃や畑を除くと)繋がりが持てないでいる。江戸時代とは言わないまでも、戦前までの祖先が歩いただろう地面にさえ、立つことができない。あったかもしれない(山間のほうには残っていたようだが)昔話の世界とは、どうやって繋がりを持てばいいのか。

 ちなみに、駅から車で十数分のところに、小説の舞台にもなった、雰囲気の在りそうな坂道の続く一角があるのだが……:「無言坂…早く昔になればいい
 富山大空襲については:「富山大空襲と松川 – 富山観光の定番・松川遊覧船へようこそ!!(富山観光遊覧船株式会社)」など。

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2016/10/18

6年前の水

 家には電動給油ポットがあったが、親戚の者がこれは電気代がバカにならないと言われ、ビニール袋をかぶせて封印。でも、昨夜、ペットボトルのお茶を電子レンジで温めるくらいなら、ポットでお湯を沸かしてお茶を飲んだほうが美味しいかなって思った(暖房にもなるし)。

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←  レイ・カーツワイル[著] 『シンギュラリティは近い [エッセンス版]  人類が生命を超越するとき 』( NHK出版[編] ) 「未来学者として技術的特異点の到来をいち早く予見し、人工知能(AI)の世界的権威として現在はGoogle社でAI開発の先頭に立つレイ・カーツワイル。彼が世界に衝撃を与えた名著『ポスト・ヒューマン誕生』(2007年小社刊)のエッセンスが一冊に! AIが人類の知性を上回り、私たちは生物の限界を超えてついにシンギュラリティへと到達する──」といった本。知能もだが、人間の肉体も、血液のみならず、内臓も脳も何もかもが人工のものに変えられていく。肉体は不滅となり、原理的には死がなくなる可能性も。気になる皮膚(感覚)さえも、人工の物で代用可能となる。食べる楽しみや、Hの感覚はギリギリまで人間は手放さないかもしれない、という懸念にも答えている。

 それで、電気ポットを引っ張り出したんだけど、なんと、水が入っていた。中身を空っぽにしないで仕舞っていた! 当然、水には虫の死骸やら、赤さびやらで汚れきっている。それはそれとして、中の水は6年前の夏の水なんだなって、妙な感慨を抱いた。その夏、父母が亡くなったのだ。

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→ 一昨日訪れた富山県内の某所。柿の栽培集荷で有名な地。ここに至る道がなかなかのドライブコース。ライダーだったかつての自分だったら、ツーリングに行っただろうなー。まだ知らない素敵な林道がいっぱい。もっと県内を知りたいな。

 今朝未明、奇妙な夢で目覚めた。夢に、あの日本ハムの二刀流の大谷選手が! どうやら、ファンサービスをしているらしく、スタンド脇のグランドでキャッチボール……遠投を披露している。私はグラウンドの三塁とホームペースのライン近くに立って見物している。

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← シンシア・バーネット 著『雨の自然誌』(東郷 えりか 訳 河出書房新社) 「雨という身近な自然現象を、惑星・地球科学から、考古学や歴史・文化・文学にいたるまで、きわめて幅広く、細部と深淵を解き明かす画期的な名著。環境問題を背景に、現代の問題も探る」といった本。日本の雨にも言及されているが、主にアメリカなどが視野の中心。雨を情緒的に捉える傾向は薄い。むしろ、(古代以来、特に近年の)人間活動と気象変動との関連に問題意識の焦点が合っているようだ。本の題名から、往年の名著である本書を連想してしまった(但し、邦題は訳者らによって命名されたものだが)。何とか読み返してみたいものだ。

 大谷選手の投げたボールが、暴投気味になり、こっちのほうへ飛んできて、何かにぶつかり、スタンドの塀のほうへ跳ね返っていく。私は、大谷投手の投げたボールを拾うチャンスが一瞬、生まれた。が、自分には拾う勇気が出ず、突っ立ったままなのである。

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← ライアル・ワトソン 著『風の博物誌 上・下』(木幡 和枝 訳 河出文庫) 「風は地球に生命を与える天の息である。“見えないもの”の様々な姿を、諸科学・思想・文学を駆使して描き、トータルな視点からユニークな生命観を展開する、“不思議な力”の博物誌」といった本。上掲の本の題名から、往年の名著である本書を連想してしまった(但し、邦題は訳者らによって命名されたものだが)。

 ああ、目の前のチャンスをみすみす見逃してしまった……またも……というところで目が覚めたのだ。  [なぜ、夢に大谷選手が現れたのか。球速165キロを叩き出した彼に注目しているのは私とて例外じゃない。それにしてお……もしかして、タイプ? ただ、大谷投手のボールは、暴投じゃなく、意図的なものを夢の中でも感じていたのは確か。] 

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2016/10/15

我が町がヒッチコックの「鳥」状態に

 近頃、我が町の近隣に(特に)夕方になると、ムクドリの群れが電線などに止まるようになってきている。
 こんな現象はこれまでなかったことだ。

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← 夕方になると、ムクドリの群れが近隣の電線などに止まる。夕方になると、彼らが集まってきて、群れを成す。アルフレッド・ヒッチコック作品「鳥」を思わせる異様な光景が夕刻になると、出現する。

 ネットの上でだが、調べてみると、下記のサイトが浮上してきた:
富山市 富山駅北の野鳥糞害について

 どうやら、ここ何年かのこと、富山駅の南側もだが、北口側にムクドリが群れを成してフン害を起こしていた。
 最近駅北側のホテルやテレビ局付近の街路樹に、特に夕方になると、野鳥、多くはムクドリがびっくりするほどに群生する。
 そのフン害もだが、鳴き声の喧しいこと。
 
 このことは知っていた。

 当然ながら市民から市当局へ苦情が出る。
 フン害を何とかしろと、憤慨の苦情である。

 市当局は、「ムクドリ対策として、平成18年から鳥の平衡感覚を乱すための磁気を発生する装置やカラスの模型、防鳥ネットを設置するなどの対策を試みてきましたが、効果は一時的なものであ」ったとか。
 そこで市は、「平成24年度から、糞害が多いケヤキ約40本を対象に、枝の剪定に併せ、鳥が嫌う臭いを発する薬剤を設置した」り、「本年5月末には、富山駅北口からテレビ局付近までの間に、ムクドリ対策の音波発生装置を試験的に取り付けた」という。
「その結果、対策を行ったケヤキの周辺では効果が見られた一方、その他のケヤキなどにムクドリが移動したと思われ、音波発生装置及び薬剤、枝剪定の効果と周囲への影響については、継続的に検証しているところ」だという。

 なるほど、(小生の感じ方では、依然として駅の北口側の街路樹からのムクドリの鳴き声はひどいものなのだが)、一定の効果はあった(少なくとも市は評価している(ようで、野鳥(ムクドリ)の鳴き声や糞害のエリアは、そうした臭いや音波などの及ばないところへと移動したわけであり、そのうちの一つのエリアとして、我が町の周辺も影響を被ったわけのようである。

 市は、「今回新たに糞害が発生したケヤキの周辺につきましては、歩道の清掃を実施するとともに、音波発生装置の設置や、枝剪定、薬剤の設置についても検討してまいりたいと考えて」いるとのことだが、とりあえず、一番苦情の多い、且つ観光客や市民の利用の多い地区からの苦情が減ったことで、やれやれというところで、今後は、市当局の動きは鈍くなりそうな予感がある。
 となると、臭いものに蓋じゃなく、臭いものを駅周辺から遠ざけた、に過ぎないことになる。

 当局や駅を利用する大多数の人たちからの苦情は減ってよかったのかもしれないが(繰り返すが、そんなに減ったとは感じられない)、むしろ、病根を散らしたに過ぎない、つまり、病巣が拡大したとさえ、言えるのではないか。

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→ アルフレッド・ヒッチコック作品「鳥 (映画)」の劇場用ポスター (画像は、「鳥 (映画) - Wikipedia」より) 原作はダフネ・デュ・モーリアの「鳥」だが、小説も抜群に面白かった。まさか、我が町までがこんな恐怖に見舞われるとは思いもよらなかった。

 といいつつ、我が町の近所にケヤキ並木なんて、あったからしら。あるいは、庭園の大きな立派な屋敷が何軒もあり、その中にはあるいはケヤキなどの大木も生い茂っているようだし、そうした屋敷の庭がムクドリらの新たな夜の生息場所になっているのかもしれない(実際のところは分からない)。

 ところで、ムクドリが目立ってきている一方、スズメやカラス、ハトの影が薄くなってきているように感じられる……のは、小生の気のせいだろうか。

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2016/10/13

三貫地貝塚 縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは? 

 過日、NHKで『「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは?」(時論公論)土屋 敏之 解説委員』という番組があり、録画して、じっくりと観た。

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→ 三貫地貝塚(新地町) (画像は、「三貫地貝塚」より) 「昭和27年に日本考古学協会、翌28年に東京大学人類学教室によって発掘調査が行われ、総数100体を超える縄文人骨が出土したことで一躍全国に知られるようになりました。東大が所蔵するこれらの人骨は「三貫地貝塚人」と呼ばれ、縄文人そのものを研究する素材として今も役立ってい」るという。その成果の一端がこの度、公表されたわけだ。


 小生(に限らないだろうが)は、生命の起源、人類の起源、そして日本人のルーツといったテーマには興味津々である。

 生命論や生物学、人類学、考古学や遺伝学関連の本は、目を引く限りは読んできた。

 以下、ほとんどが転記となるが、自分のメモのためにも、記録しておきたい。


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2016年10月10日 (月) 

「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」(時論公論)

土屋 敏之 解説委員


日本人の祖先と思われている縄文人。そのイメージが大きく変わろうとしています。
福島県で発掘された人骨からゲノムが解読され、「縄文人はアジアの他の地域の人たちと大きく異なる特徴を持っていた」とわかったのです。そればかりか、現代の日本人とも予想以上に違いが大きかったと示されました。
では一体、縄文人とは何者だったのか?私たちのルーツにも関わる最新科学の意味を3つのポイントから読み解きます。


まず、「核DNA解析」と呼ばれる今回の手法が、これまでと何が違うのか整理します。

(途中、略)

先月、国立遺伝学研究所などのグループが「縄文人の核ゲノムを初めて解読した」とする論文を 専門誌に発表しました。この「縄文人」とは、福島県新地町にある三貫地貝塚で発掘された3千年前の人骨です。三貫地貝塚は、昭和20年代に100体以上の人骨が発掘された、縄文時代を代表する貝塚のひとつです。研究グループは、東京大学に保管されていた人骨・男女2人の奥歯の内側からわずかなDNAを採取し、解析に成功しました。


DNA解析と言えば、今や犯罪捜査から薬の副作用の研究まで様々な分野で使われていますが、今回の研究では「核DNAの解析」というのがポイントです。実はこれまで「古代人のDNA」というと、行われてきたのは「ミトコンドリアDNA」というものの解析でした。

私たちの細胞には「核」があってその中に「核DNA」が入っていますが、これとは別にミトコンドリアという小さな器官の中にもDNAがあります。ミトコンドリアはひとつの細胞に数百個もあるため分析に広く使われてきました。ただ、ミトコンドリアDNAの持つ情報は限られていて、文字数に例えると2万文字以下の情報しかありません。これに対し、核DNAは32億文字にも上り、私たちの姿形や体質など膨大な情報を含んでいます。技術の進歩で新たな分析装置が登場したこともあって、今回、日本の古代人では初めて核DNAの一部が解読されたのです。


では、縄文人とは何者だったのか?こちらは解析の結果、三貫地縄文人が現代のアジア各地の人たちとどれぐらい似ているのか、プロットした図です。近い場所にある人同士は核DNAがより似ていることを示します。すると、縄文人はアジアのどこの人たちとも大きな隔たりがあるとわかりました。それだけでなく、現代の日本人ともかなり離れています。現代の日本人は、縄文人よりむしろ他のアジアの人たちに近い位置にあるのです。


こうした距離は、人々が共通の祖先から別れて別々に進化を始めた時代の古さを示すと考えられています。DNAには時間と共に突然変異が起きるため、別れてからの時間が長いほど違いが大きくなるためです。


そこで、この結果を共通祖先からの分岐の古さを示す「進化の系統樹」にするとこうなります。「ホモ・サピエンス」と呼ばれる私たち現生人類は20万年前にアフリカで誕生し、その後他の大陸に進出しました。ヨーロッパに向かった人たちと別れ、東に進んだグループのうち、最初に分岐したのはパプアニューギニアからオセアニアへ渡った人たちです。そして解析の結果、次に別れたのが縄文人だったのです。これは、縄文人が他のアジア人ほぼ全てと別のグループであることを意味します。他のアジア人はその後、中国や東南アジア、さらにはアメリカ大陸に向かう集団へと別れました。現代の日本人もこちらのグループに入っています。これを見る限り、縄文人は日本人の祖先には見えません。ただ同時に、この矢印は、縄文人と現代の日本人のDNAのうち12%は共通だということを示しています。一体どういうことなのか?研究者が考えるシナリオです。


およそ4万年前から2万年前の間に、大陸から日本に渡った人々がいました。大陸とは海で隔てられていたため、この人々はその後大陸のアジア人と交わること無く進化を遂げ、縄文人の祖先になります。その間、大陸のアジア人も様々に別れていきました。

そして、縄文時代の末以降、再び大陸から日本に大勢の人が渡ってきました。いわゆる渡来系の弥生人です。稲作文化を持ち込んだ渡来系弥生人は人口の多くを占めるようになりますが、その過程で縄文人と幾らか交わりを持ったため、現代の日本人には12%だけ縄文人のDNAが伝えられたのです。従来の研究では、現代日本人には縄文人の遺伝子が2割~4割ほど入っているとも考えられていましたので、それよりかなり少ないという結果です。

ただし、これはあくまで福島県・三貫地貝塚のわずか2人のDNA解析の結果です。「縄文人の中にも多様な人達がいて三貫地縄文人は現代人との共通性が低かったが、西日本の縄文人はもっと共通性が高いかもしれない」と考える専門家もいます。現在、国立科学博物館などのグループでも、北海道から沖縄まで各地の古代人の核DNA解析に取り組んでおり、今後、日本人のルーツはより詳しく解明されていくでしょう。

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 以下は、略すが、この先の説明も興味津々である。


 関連情報は、「日本の人骨発見史11.三貫地貝塚(縄文):福島県最大級の縄文時代人骨出土遺跡 - 人類学のススメ」が詳しい。

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2016/10/11

行く我の肩を叩くかホトトギス

 寒い日が続いている。十月の上旬なのに、最高気温でも寒いくらい。
 今日、とうとう、熱いお茶を飲んだ。

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→ 今朝、家を出ようとしたら、庭先に杜鵑草(ホトトギス)の花が一斉に咲きだしていた。密生していて、肩先に花たちが触れてくる。いよいよ秋も深まっていく。人恋しい秋。

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 いつもは冷やして飲むのだが、熱いと、いかにもお茶、日本茶という旨みや風味を感じる。
 そして、夕刻からは、暖房を使いだした。下手すると、暖房に頼り始めるのは、去年より一ヶ月は早かった気がする。

 自宅ではやや重め…というか、ハードカバーの本を読んでいる。
 一方、車中では、どうしたって仕事の合間合間に読むので、細切れの読みにならざるをえないし、軽め…ってわけではないが、読みやすい本を選んでいる。
 この数日は、AVやら性風俗関連の本。特に後者は、土壇場に追い詰められている女性たちの、悲惨な現状が示されていて、深刻である。
 知的な障害だったり、肉体的な劣等(感)だったり。想像以上に生活保護などを受けているのだが、生活費をうまくコントロールできない人が多い。

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← 森林原人著『偏差値78のAV男優が考える セックス幸福論』 (講談社文庫)

 セックスが大好き。何よりも好きだし楽しい。自分も相手も互いに気持ちよく。そんな大好きなことを仕事の形でとことんやっちゃう。ダンスやスポーツや勉強や音楽、料理、職人だと、好きなことに専念し、それを仕事とするのは、儲かるかどうかは別として羨ましいと思われるだけだし、一定の社会的認知も得られる。けれど、それがAV男優だと、あるいはAV女優だと(猶更か)、社会的な評価は得られない……だけじゃなく、なかなか公には職業名は出せない。

 セックスが好きで、何人もの女性(あるいは男性)と濃厚なセックスができるといっても、いざ、仕事となるとどんな相手とHするか知れないし、嫌悪すべきメニューである可能性もある。H三昧は楽しそうだが、仕事として義務となると、体力も要るし、相手が誰だろうとセックスに打ち込むのって、想像以上に大変だろう。でも、やはり、傍から見る限りは羨ましい……と思いつつ、何もできない自分は、ビデオの形で、あるいは妄想の中でH三昧の日々を垣間見るのである。ホント、セックスが大好きで、セックスを仕事に出来るのは幸せと公言できることが羨ましい……というか、妬ましい。

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←  坂爪真吾著『性風俗のいびつな現場』 (ちくま新書) 「妊婦や母乳を売りにするホテヘル
わずか数千円で遊べる激安店 四〇から五〇代の熟女デリヘル…… 店舗型風俗が衰退して以降、風俗はより生々しく、過激な世界へとシフトしている」とか。

 貧困の連鎖の果ての、貧困困窮女性たちの最後の砦でもある性風俗。追い詰められた女性たちを泥沼から救うには、単に風俗店から抜け出させるだけじゃダメ。性風俗と福祉との連携が必要。風俗から足を洗った後の道筋を立てないと本当の救いにはならないからだ(自分で生活費の管理ができない女性が多い)。驚いたのは、ギリギリの(安売りが売りの)風俗店に、精神的肉体的障碍者が実に多いこと。そうした人たちが一般社会で生きられず、最後の選択として風俗店に駆け込んでくる。

 けれど、一旦、嵌まったら抜け出すこともできない。しかも、風俗店の中でも無理やりの性的虐待を受けがちだが、店長も含め、誰も助け出すことはできない。

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2016/10/08

物質とウイルスとの境界がどんどん

 雨続きの今日この頃、忙中閑ありじゃないが、何とか時間を搔き削って、牛歩だけれど、読書は楽しみとして、断固続けている。
 昨日は、ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン著の『ラストライティングス』に続き、中屋敷均著の『ウイルスは生きている』を読了した。

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← 中屋敷均著『ウイルスは生きている』(講談社現代新書)

 ウイルス関係の研究が進んだこともあって、この一二年、ウイルス関連の面白い本が相次いで刊行されている。
 小生が読んだ本だけでも、上掲の本の外、福岡伸一著の『生物と無生物のあいだ』や、フランク ライアン著の『破壊する創造者――ウイルスがヒトを進化させた』 、武村 政春著の『巨大ウイルスと第4のドメイン 生命進化論のパラダイムシフト』などを読んできた。

 感想を述べる能などないので、今日は内容紹介を示すにとどめておく。
 表題には、物質とウイルスとの境界がどんどん狭くなっていることを示すにとどめているが、ウイルスと細胞との境界もなくなりはしないが、擦り減ってきつつあるようである。

 さて、中屋敷均著の『ウイルスは生きている』は、本書の内容紹介によると:

新型インフルエンザやエイズなど、人類を脅かす感染症を伝播する存在として、忌み嫌われるウイルスだが、自然界には宿主に無害なウイルスも多い。それどころか、宿主のために献身的に尽くすけなげなウイルスたちも多い。実は、私たちのDNAの中には、ウイルスのような遺伝子配列が多数存在し、生物進化に重大な貢献をしてきたことが近年の研究でわかってきた。ウイルスは私たちの中に、生きていたのだ!

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← 福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)

 本書の内容紹介によると:

生命とは、実は流れゆく分子の淀みにすぎない!?

「生命とは何か」という生命科学最大の問いに、いま分子生物学はどう答えるのか。歴史の闇に沈んだ天才科学者たちの思考を紹介しながら、現在形の生命観を探る。ページをめくる手が止まらない極上の科学ミステリー。分子生物学がたどりついた地平を平易に明かし、目に映る景色がガラリと変える!


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→ パンドラウイルスの小片の電子顕微鏡画像。 Image courtesy Chantal Abergel and Jean-Michel Claverie  (画像は、「パンドラウイルス、第4のドメインに? ナショナルジオグラフィック日本版サイト」より)

パンドラウイルス、第4のドメインに? ナショナルジオグラフィック日本版サイト」によると:
 

これまで知られている中で最大のウイルスが発見された。パンドラウイルスと呼ばれるこれらの生物は、科学の世界にまったく新しい疑問を突きつける存在で、発見した研究チームによれば、既存の生物とは完全に異なる第4のドメインに属している可能性もあるという。 新たに見つかったパンドラウイルス属のウイルスの大きさは約1ミクロン(1000分の1ミリ)で、50~100ナノメートルほどしかない他のウイルスと比較すると格段に大きい。属とは分類学上、種と科の間に位置するカテゴリーだ。

 物理的な大きさだけでなく、パンドラウイルスはDNAも巨大だ。大部分のウイルスの遺伝子の数は10程度だが、パンドラウイルスは2500の遺伝子を持っている。


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← 武村 政春 (著) 『巨大ウイルスと第4のドメイン 生命進化論のパラダイムシフト』(講談社ブルーバックス)

 本書の内容紹介によると:

2013年7月、「超巨大ウイルス」に関する第1報が、科学誌『サイエンス』に掲載された。発見当初は「新しい生命の形」というニックネームが与えられていたというこの巨大ウイルスは、論文では「パンドラウイルス」という名が付けられていた。むろん、その名の由来はギリシア神話の「パンドラ」である。
当初、このウイルスが「新しい生命の形」と名付けられたのには理由があった。その姿が、それまでのウイルスとは大きく異なっていたからだ。かといって、これを生物とみなすにはあまりにもウイルス的であった。ウイルスでもない。生物でもない。だとしたら、これまでに全く知られていない新たな生命の形なのではないか。そもそも、「生物」とはいったい何なのだろうか?

『巨大ウイルスと第4のドメイン』生命進化論のパラダイムシフト武村政春=著 現代ビジネス 講談社」によると:
次々と発見される巨大ウイルスは、サイズが大きいだけでなく、多彩な遺伝子を持ち、細胞性生物に近い機能を備えているものもいる。これらの新発見により、「ウイルスは生物ではない」という定義が揺らぎ、巨大ウイルスは未知の生物グループ(ドメイン)ではないかという議論が湧き上がってきた。最先端のウイルス研究が「生物とは何か」をあらためて問い直す。

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← フランク ライアン (著)『破壊する創造者――ウイルスがヒトを進化させた』 (夏目 大 (翻訳)  ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 本書の内容紹介によると:
 

エイズ、エボラ出血熱など命をも脅かす感染症を引き起こすウイルスは怖い存在だ。 しかし実は生物進化に重要な役割を果たしてきたという。 ダーウィンの進化論にも一石を投じる仮説を、生物学者で医師の著者がスリリングに証明していく。 ウイルスが自らの遺伝子を宿主のDNAに逆転写し共生していること、 ヒトゲノムの約半数がウイルス由来であることなど、
驚きの事実が解明され、医療に新たな道を拓いていく。 解説/長沼毅

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2016/10/07

ウィトゲンシュタイン著『ラストライティングス』を体験する

 一昨日、ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン著『ラストライティングス』を読了。
 小生は、大学の卒論にヴィトゲンシュタイン(の言語論)を選んだ。

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← ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン著『ラストライティングス』(訳:古田徹也 講談社) 「ウサギ=アヒル頭」図。見方によっては、ウサギにもアヒルにも見える絵。では、「これはアヒルだ」と一瞬ひらめく現象とは、なんなのだろうか。ウィトゲンシュタインが「アスペクトの閃き」と表現するこの体験に関する考察から導かれる哲学とは? 他人が「痛みを感じている」ことと「痛い振りをしている」こと―言語、心、知覚、意味、数学など終生を貫くテーマが凝縮された注目の遺稿集

 高校三年の頃からヴィトゲンシュタイン(今は、通常、ウィトゲンシュタインと表記するのが正しいとされる。自分の中で勝手にヴィトゲンシュタインと呼称している!)に魅入られてきた。仙台での大学生の一時期など、ヴィトゲンシュタインのある写真に刺激され、敢えてベージュ色の、いかにも(我ながら)ダサいジャンパーを羽織って、ヴィトゲンシュタインを内心気取っていた。

 彼の『論理哲学論考』は、自分にとっての愛惜の書、宝石のような本である。
 大学を卒業してからも、翻訳された彼の本は可能な限り読んできたものだった(彼についての評論の類は、ほとんど無視)。最近も、『秘密の日記』 (春秋社)を読んだばかりである。

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← ウィトゲンシュタイン【著】『論理哲学論考』(野矢 茂樹【訳】 岩波文庫) 「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」―本書は、ウィトゲンシュタイン(1889‐1951)が生前刊行した唯一の哲学書である。

 若いころは、彼の独自の宗教観や(音楽などの)芸術館に共感してきたが(あるいは今も!)、それより大切なのは、あるいは彼に何故に惹かれるかを考えると、読みを重ねるにつれ、むしろ別の点にあるのだと思えてきた。

 それは、彼が独自の哲学説を唱えたことにあるのではなく、どの本においても、彼の独自の哲学する姿勢が垣間見えることにある。
 というか、彼の哲学する姿勢がそのままに如実に示されていることに、彼の本(哲学)の特徴があり、それが魅力となっているのだ。
 恐らくは彼の日常そのものが哲学することにイコールとなっているのであり、そうした哲学する日常がそのままドキュメンタリー風に集約され、本という形に凝縮されたというべきなのだ。

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← ルートヴィヒ ヴィトゲンシュタイン (著)『反哲学的断章―文化と価値』(丘沢 静也 (翻訳)  青土社)

 思考の結果が論述されているのではなく、思考そのもの、試行錯誤そのものがホットなままに提供されている。
 彼の本に、卒なく要約されるような、何等かの説を求めるのは不毛だし、見当違いだろう。
 そうではなく、何かこだわったテーマをとことん探求する、そのプロセスそのものをこそ、思考する厳しさと真剣さそのものを体験すべきなのだ。
 

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2016/10/05

『日本海 その深層で起こっていること』と日本海逆さ地図

 久しりに書店へ。本をまとめ買い。
 自分としては、一冊読み終えたら、次は何を読もうかな、書店でどんな本と出合えるかなと、いそいそと足を運び、棚を物色して歩いて、これだという一冊を手に、早く読みたいなと家路を急ぐ、そんな子供の頃や学生時代の本との付き合い方が望ましい。

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→ 「環日本海・東アジア諸国図」 (画像は、「no.571-1逆さ地図リニューアル、環日本海・東アジア地域の可能性を探るツールに 富山の“今”を伝える情報サイト|Toyama Just Now」より) 一昨年(26年)、「富山県は、日本海を中心に地図の南北を逆転させた「環日本海諸国図」(通称:逆さ地図)の改訂版を作成した」。

 でも、今はどんなゆとりがない。まとめて予約し、まとめて入手し、どんどん本を読んでいく、次の本が目の前の棚に並んでいるプレッシャーを感じつつ、そんな慌ただしい本との付き合い方なのである。

 さて、一昨日、蒲生 俊敬著の『日本海 その深層で起こっていること』を読了した。

 本書にも冒頭付近で指摘されているが、「日本海の広さは、世界の海域の広さの0.3%でしかない。いわばミニサイズの海である。また、日本海は、それぞれ約10m、50m、130m、130mの水深しかない、間宮海峡、宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡の4つの海峡を通じて隣り合う海とつながっているだけで地形的に閉鎖性が強いという特徴がある」という(「日本海 - Wikipedia」など参照)。
 小生は、まずそれぞれの海峡の浅さにおどろいた。
 一方、最大水深の方は3,742mある。
 小生は、日本海も地中海たりうると思っているが、地中海は、「内海であり、西端のジブラルタル海峡のみでしか外海と接続」がない。
 それでも、日本海は、政治的文化的経済的構想を持てば、東アジアの地中海足りうると思う。
日本海に面する諸国の都市の間の政治・経済・文化交流を深めようとする環日本海構想」は、かつては盛んに喧伝されていたものだ。
 日本と中国(や韓国)などとの政治的軋轢が近年、強まって、しりすぼみ状態だが、近い将来、見直されるに違いないと思う。

 さて、富山に生まれ育ちながらも、日本海のことを何も知らなかったと つくづく思い知らされた。
 ただ、本書で示されている研究成果は、日本海側に暮らす人々でも、大半は初耳だろうと思う。

 本書で示されていることで一番重要なポイントの一つは、「日本海は周囲を海峡に囲まれていて、外海の水は対馬暖流からしか入ってこない。だが、対馬暖流は「日本海らしさ」を形成する上で、決定的に重要だという。対馬暖流は豊富な酸素と塩も含んでおり、これが北上すると、ウラジオストク周辺の寒風に晒され、比重の重い塩を含んだ対馬暖流の水が底層に沈み込んでいく。すると、底層の水が表層へ押し出される。日本海の水は100~200年かけて循環しているという。この移動がないと、底にある水は底たまりっぱなしで酸欠になり、底層部は生物が棲めない「死の海」になってしまう」ということだろう。

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← 蒲生 俊敬【著】『日本海 その深層で起こっていること』(ブルーバックス) 「世界中の海洋学者が注目する「ミニ海洋」=日本海。かつて“死の海”だった日本海を、生命の宝庫にした8000年前の出来事とは?」だって。

 つまり、地中海どころじゃなく、今のままだと、黒海になりかねないという指摘だ。
 日本海の海の経年変化を調べることで、世界の海の変化を先取りして予測することが可能だという。
 そんな兆候が既にデータから読み取れるというのだ。

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2016/10/03

ジョイスとプルーストと

 ジェイムズ・ジョイス著の『ユリシーズ』、全四巻をようやく読了した。出来る限り、注釈も参照しつつなので、分量的にはかなりのもの。二か月を要したかもしれない。

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← ジェイムズ・ジョイス著『ユリシーズ〈4〉』 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

 本書を読んで感じたこと、というより考えさせられたことは、小説とは何かだった。
 読了して考えさせられたのではなく、 読み進めつつ常にそうした問いが投げかけられているようだった。
 ひたすら言葉遊びの連続であり、古今の古典や名作に限らず、ありとあらゆる作品が場面との同時進行で参照されつつ、神聖から卑猥や猥雑まで、多くはあまりに日常的な単調さ、退屈さがこれでもかと描かれる。

 ジョイスが目指したのは何なのか。過去の文学や宗教や哲学、伝統、つまりは既成の価値観の転倒、だが、転倒しつつも、嘲笑や冷笑で高笑いするのではなく、徹底して日常の深浅を描きつつ、日常の一回性を、そっくりそのままに切り取って指し示すことだったのかもしれない。

 近代の小説の描こうとするものは何か。それは、過去のどんな作品でも描かれたことのない、その作者でなければ決して描けない世界。
 だとしたら、他人には決して描けないだろう、確実に新奇なる世界とは、まさに作者が見聞きしている日常そのものを、徹底してありのままに描くことだろう。

 いわゆる、小説として従来求められてきたストーリーもプロットもまるで頓着せず、ただ、どんなに平凡でありきたりに思えようと、日常のある断面を全知全能を傾けて掴み取り描きつくし指示して見せる。

 聖も性も高踏も低俗も、緊張も弛緩も、間延びも喧噪も、何もかもが同時並行して存在するのが日常なのであり、ジョイスにとっての文学は、その一回限りの日常をありのままに描きつくすことなのではないか、そんなことを感じたりした。

 小生は、五年ほど前から岩波から翻訳が出つつある、吉川訳のプルースト『失われた時を求めて』を読んできている。最新刊も出たばかりで、既に予約済みである。
 こちらのほうは、まるでジョイスとは違って、プロットもあればストーリーもあるし、その都度の場面をフォローするのは容易だし、場面を脳裏に鮮明に描ける。

 けれど、ある意味、ジョイスとプルーストは同じことをやっているようにも感じられた。
 現にあることをそのままに描き切ること、そのことである。

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← プルースト【作】『失われた時を求めて〈10〉囚われの女〈1〉』(吉川 一義【訳】 岩波文庫)

 方や、腕力と風刺と諧謔の精神とで、言葉の可能性の限りを尽くして、現実をミキサーにかけて、混沌の坩堝に放り込んだとすれば、片や、繊細の精神の限りを尽くして、ビロードのような微細な言葉の映像に現実を移行させていく。
 言葉という道具を使って、表現の可能性をとことん極めた、そんなふうにまとめてしまうと、なんだつまらない結論だことと、嗤われそうだが、しかし、ジョイスとプルーストとの二人で、文学の極北を渉猟してしまったのだとは言えそうな気がする。

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