ジョージ・エリオット『ロモラ』を再び
20年ほど前、図書館から借りだして読んだ。小生の失業時代だった。これは発見。イギリス文学作品は少しは読んでいたが、ジョージ・エリオットは当時、未知の作家。
← 『ジョージ・エリオット全集 5 ロモラ』(ジョージ・エリオット 著, 原 公章 訳, 海老根 宏 監修, 内田 能嗣 監修 彩流社) 「ロモラ 彩流社」参照。
当時、集英社の訳本で読んだが、彩流社から彼女の全集が出るということで、まずは『ロモラ』を入手。今日から読むよ。解説を含め700頁あまり。気を長くして、じっくりと。
→ この短冊、書家の青木春嶺さんにいただいたよ。筆ペンですらすらっと(?)書いたもの。筆ペンでも、こんなに見事に書ける!
「エリオットとスピノザとモームと」(2007/08/20):
ジョージ・エリオットに事寄せてみると、彼女は、徹底したリアリストなのだろう。この世の誰かが主人公という発想法は彼女にはありえなかったのではないか。たまたま誰かを便宜上、小説の主人公に仕立てたとしても、それはたまたま誰かにスポットを当ててみたに過ぎず、彼女にしたら他の誰でも良かったのではないか。
この世の誰もが、脚光を浴びて描かれるなら、一個の文学作品の主役足りうる世界が開示されうる。ジョージ・エリオットに情熱が欠けていると、モームは指摘したとか(その典拠を確認していないので、前後の詳しい脈絡も何も分らないのだが)。
が、その真意はともかく、小生に言わせるなら、彼女は情熱が溢れすぎていた。誰彼に的を絞るにはあまりに横溢する情念がそれを許さなかった。客観的に登場人物を描き分けているというより、登場する誰彼は主役と同じように遇して描きこまないと気がすまない、そうした性分の結果なのではないか。小生には上手くスピノザの哲学とジョージ・エリオットの文学的特徴とを重ね合わせたり、スピノザの哲学に共感することを示す典型的な箇所を示したりはできないが、小生の大雑把な直感が、ジョージ・エリオットとスピノザ、ああ、そうかもしれないね、なんて安直に納得してしまっていたりするのである。
関連拙稿:
「「ジョージ・エリオット」作品について」(2005/07/08)
「ヒースの丘」(2007/08/10)
「「ジョージ・エリオット」解説」(2007/08/05)
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