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2016/08/09

核兵器は生命一般への脅威であり敵である(後篇)

 本稿で問いたいのは、原爆とは何か、である(原爆のメカニズム、といった意味合いではなく)。
 原爆は、理由はともかくとして、敵国に投下された。

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← 原爆ドーム。8月5日撮影。

 敵国の軍隊や軍需施設、あるいはむしろ、民間人を一挙に殲滅するために投下されたものである。
 では、原爆は、一般のナイフや拳銃、機関銃、大砲、ミサイルなどとどこが違うのか。単に規模なのか。
 一発で巨大な威力を発揮するという意味で、効率性が高い、という点が違うのか。
 ナイフにしろ、機関銃や大砲にしろ、基本的に敵を狙うものである。

 敵兵や敵の軍需施設、道路などを破壊せんとするものなのであることは、自明のことだろう。
 だったら、原爆だって、同じであり、ただ規模が違うだけではないのか、とも考えうる。
 何が、原爆と一般の武器と違うのか。あるいは、実のところは本質において同じなのではないか。
 
 すぐに思い浮かぶ、一般の火器と原爆との違いは、その規模もさることながら、その影響の持続性だろう。
 原爆が投下された直後の悲惨な事態もだが、原爆の悲惨さがより露骨に露わとなるのは、放射能の影響が直撃を受けた当人のみならず、子や孫の世代まで影響し続けることである(風聞被害も甚大である!)。

 この放射能という特殊性は、原子力発電所の事故も同じであり、事故の直後の犠牲にとどまらず、事故以降ずっと放射能汚染の恐怖(あるいは被爆の影響による症状がいつ肉体に現れるのか分からないという恐怖)と戦わねばならないという特殊性は、特筆に値する。

(ちなみに、小生は原発については、立地について条件を付して賛成である。その条件とは、原発の施設から半径100キロ圏内に、人間などの動物も植物も、空の鳥も、川や海の魚も、微生物を含め一切の生命体の存在しないことである。これは最低限の条件だ。この件についても、本稿では深入りしない。)

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→ 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑。8月5日も6日も、暑い、暑い、一日だった。 「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」参照。

 このようにして、原爆の持つ、爆弾としての規模の大きさ、戦争の上での効率性の高さ、放射能汚染という被害の持続性が、ある意味で、(水爆を含め)原爆を使えない兵器にしているわけである。
 同時にこの核兵器の際立った脅威こそが、國と国との戦いを行い難くしている、代わりに国や同盟側と特定の集団とのテロ戦争という事態が将来されてしまっている)という事態とつながっていることは言うまでもない(本稿ではこの点も追及しないでおく)。

 核兵器のお陰で戦争が回避されているという皮肉の事態ほどに情けない現実があろうか。
 日本も、アメリカの核の傘のもとにあり、正面切ってアメリカに対しても、世界に対しても、核兵器をなくせとは言えない、情けなく悲しい現実がある(ことも、本稿では触れないでおく)。

 再度、問おう。核兵器と一般の武器との違いは何処にあるのか。
 私が、この異同にこだわるのには、理由がある。
 核兵器をなくするには、どういった論理が有効なのかを考えたいからである。
 少なくとも今までの問いかけでは、核兵器を所有する国々の動機を粉砕することが叶わないと思えるからなのである。

 広島や長崎への原爆の投下で、すぐに犠牲者の人数が取りざたされる。
 人間にとって人間のことが第一の関心事なのだから、投下直後、あるいはその後の犠牲者の数が問われるのは、当然のことだろう。
 だが、私は、原爆は、軍人や民間人を無差別に殺すものだというだけの理由で原爆等の核兵器を指弾するのは、物足りなく思えてならないのである。

 原爆と一般の武器との違いは、原爆は、一般の火器と違って、人間のみならず、牛や馬や豚などの家畜のみならず、猫や犬などのペットのみならず、ネズミやタヌキやクマなどの動物のみならず、ハエやカやトンボやセミなどの動物、さらには、松や杉やアオギリなどの樹木や草花の数々、あるいは川に生息する魚たち、もしかしたら空を飛んでいた、それとも樹木に休んでいた鳥たちなど、もっと言えば、苔や藻、目には見えない微生物など、ありとあらゆる生物たちを無差別に殺すものなのだ、という点にあると考える。

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← 平成28年8月6日 広島市原爆死没者慰霊式会場。式典直前の光景。

 一般の武器だって、場合によっては、こうした生物たちを巻き添えにすることがあるだろうが、核兵器は、投下された地域に生息する、ありとあらゆる生物たちを(ターゲットの人間たちの巻き添えではなく)一挙に殲滅する兵器なのだという点にあると考えるのだ。

 つまり、核兵器は、人類の脅威ではなく、生物一般の、つまりは生命一般の脅威であり、敵そのものなのだという点で、一般の武器とは違うものだと考えるわけである。
 
 5日6日の慌ただしい広島への旅、一日に足りない(約21時間)の滞在の中で、私は大雑把にはこんなことを考えていたのである。

                       (8月8日、一部改編)

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コメント

こんにちは 実際に広島に行かれたんですね。

 いろいろと思うところがありますよね~

 毎年8月になると戦争の事、原爆の事、特攻の事、
29日の自分の誕生日よりは真摯に向き合う気がします(笑)
 
 原子力は、私的には腐敗と発酵のようなにおいがします。
破壊の為の兵器にもなればエネルギー源にもなる。
使用済み材の処理の研究が完結しないまま実用化した事、
それが必要悪のような扱いになる原因かも?

 一旦生れ出てしまうと良識で制限するのは難しそう。
 かならずアンチがいますから。

 でも日本は唯一の戦争被爆国として、もっと世界に
核の恐ろしさを発言しないとダメだなと思いますね。


 

投稿: ガラクタ | 2016/08/10 07:11

ガラクタさん

広島・長崎のことを想いつつも、頭でっかち風な、アリバイ作り程度を超えない関心だったような。
でも、広島へ行く機会が目の前に生じたので、敢えて手をあげたのでした。
ようやく、原爆ドームの前に立つことができた。

原子力発電は、少なくとも日本の場合、ビキニ事件を受けての、日米の知恵者が、日本の原爆アレルギーを回避し、核アレルギーをも緩和するため、原子力の平和利用のお題目のもと、原発がどんどん作られていった経緯があります。
お陰で、広島・長崎も、アメリカ(軍)の責任を問う意識も弱まったし、それどころか、アメリカにうまく洗脳されていきました。
オバマ大統領が来たら、感激してしまって、世論はコロッと変わってしまった。
広島・長崎への原爆投下は、人類による人類への最高の戦争犯罪だと小生は考えています。

そして、少なくとも日本は、原爆も原発も認めるべきじゃないと考えます。
それが、世界唯一の被爆国の責任ではないでしょうか。

投稿: やいっち | 2016/08/10 22:42

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