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2016/07/27

春画駘蕩されど血塗られた慈悲、笞打つ帝国

 今日はあいにくの雨。昨日に続いての外仕事はできない。ってことを言い訳に、外出三昧。仕事に使う靴の底が擦り減って、つるつるになっていて、歩いていても危ないので、新しいウオーキングシューズやワイシャツなどを買いにショッピングセンターへ。

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← 「ユリイカ 2016年1月臨時増刊号 総特集◎春画 SHUNGA 」(辻 惟雄 小林 忠 上野千鶴子 田中優子 ロバート キャンベルら 青土社) 

 その足で、プリンター用のインクリボンを買いに電気店へ。
 さらに、組合の用事で地連へ。委員長と会談など。
 ホントは、久しぶりに書店に足を運ぶつもりだったが、会談が思ったより長引いて、今日は断念。
 帰りにスーパーで買い物へ。

 他にもこなすべき組合関係の用事が山積しているのだが、ほとんどを放棄、先延ばし。
 そういえば、組合員仲間(の親)に不幸があって、委員長として、明日にも葬儀に出席しないといけない。
 今年は、会社関係の葬儀が立て続けにある。
 ということで、なかなか落ち着いて本を読むというわけにはいかないが、それでも、時間を齧るようにして、本を読む時間を作っているのだ。

 数日前から読み始めているのは、ダニエル・V・ボツマン著の『血塗られた慈悲、笞打つ帝国』と、昨日からは、「ユリイカ 2016年1月臨時増刊号 総特集◎春画 SHUNGA 」である。
 前者もだが、後者はひたすら好奇心に駆られて手を出した。男女の絡みに没頭できたらいいなーと思うが、柵がきついなーとも。

 書評などは、たとえば、「女の本屋 イチオシ 『ユリイカ1月臨時増刊号 総特集 春画/SHUNGA』 上野千鶴子ほか著 青土社(2015年12月) ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network」など参照のこと。

 このなかで、「2015年9月から12月まで開催された『春画展』は、盛況で、入場制限がでるほどだったそうだ。カップルが多く、年齢層が広いという印象を受けたというお二人。春画が女性に受け入れられている理由には、女性が経済力を持ちはじめたということと、女性の自己肯定がかなり大きくあると」か。

「上野さんと田中優子さんの対談に絆されて、春画から広がる、豊かで奥深く、遮るもののない解放された意識と、まどろみかけたときのような夢見心地な感覚を、胸底あたりに覚えているのを呼び覚まされた気がしてならない。あなたの身をもって、女の、客体としての快楽の奥底にいざなわれて浸ってみてはいかがだろう」というのは、なかなかの誘い文句なのか。

 なかでも、上掲の書評でも引用されているが、本書の中の、上野千鶴子氏と田中優子氏の対談にある、「女性にとっては、まなざされるというのはある意味でアイデンティティの一部に刷り込まれています。私は『スカートの下の劇場』の中で、「女は自分自身を客体化するナルシシズムのなかに、エロティシズムを感じる」と書きました。男のボディパーツなんかには萌えません(笑)。』(p.154)と上野さん」ってのは、なかなかインパクトがある。

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← ダニエル・V・ボツマン著『血塗られた慈悲、笞打つ帝国』(小林朋則訳 インターシフト) 「江戸から明治へ、刑罰がいかに社会秩序の基盤となり、権力を形成・変革してきたのかを、解き明かした画期的論考」だとか。とりあえずは、好奇心から手を出したのだが…。

 おっと、まだ読んでいない部分にまで先走ってしまった。読む楽しみを損なってしまう。
 感じるのは、春画(に限らず、男女の機微に渡る)ような話題だと、誰しも饒舌になるってこと。
 春画では、女性の恍惚たる表情が印象的である。男性が楽しんでいる以上に、その幾層倍も女性が堪能しているのだと、つくづくと感じさせられる。

「女は自分自身を客体化するナルシシズム」発言に関連するかどうか分からないが、小生は以前、下記のような小文を綴ったことがある:

(前略)女性が初めて化粧する時、どんな気持ちを抱くのだろうか。自分が女であることを、化粧することを通じて自覚するのだろうか。ただの好奇心で、母親など家族のいない間に化粧台に向かって密かに化粧してみたり、祭りや七五三などの儀式の際に、親など保護者の手によって化粧が施されることもあるのだろう。
 薄紅を引き、頬紅を差し、鼻筋を通らせ、眉毛の形や濃さ・長さそして曲線を按配する。項(うなじ)にもおしろいを塗ることで、後ろから眺められる自分を意識する。髪型や衣服、靴、アクセサリー、さらには化粧品などで多彩な可能性を探る。

 見る自分が見られる自分になる。見られる自分は多少なりとも演出が可能なのだということを知る。多くの男には場合によっては一生、観客であるしかない神秘の領域を探っていく。仮面を被る自分、仮面の裏の自分、仮面が自分である自分、引き剥がしえない仮面。自分が演出可能だといことは、つまりは、他人も演出している可能性が大だということの自覚。
     (拙稿「初化粧」(2005/01/11)より)

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