ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』再読
ヴァージニア・ウルフ著の『ある作家の日記 【新装版】』を読了した。
→ 内庭(築山)のカエデの緑が一層、濃くなってきた。こうした緑陰で読書ってのも、洒落ているね。
本書を初めて読んだのは、もう、十年以上も前になる。図書館から借りだして読んだが、これは所蔵し、じっくり読み返したいと念願していたが、ようやく叶った。
夫君であるレナード・ウルフが膨大な原日記から、(一)文章を書く練習の場として日記を用いている箇所、(二)必ずしも作品に関係なくとも、ウルフの文学にとってナマの素材となったと考えられる情景や人物を描いているくだり、(三)読んでいる本についての感想、の三点に絞って編集したものだとか。
なので、訳者によるあとがきによると、日常生活の些事や多くの対人関係などが省かれている。
ウルフ自身が「私の病」と呼んでいるものの実相が分からないのだが、夫のウルフが述べるように、彼女の病気が夫妻の生活の大きな部分を占め、さらにはヴァージニアの創作活動にプラス・マイナス両方向に微妙な関わり合いを持っていた。
その大きな部分が省かれている。
また、ヴァージニア自身は連れ子であり、義兄に幼いころから長年にわたって性的な虐待を受けていたことは、日記の中には何ら(示唆すらも?)書かれていない。
そうした大きな前提を置きながらも、本書は実に読み応えがある。
日記のところどころで、ウルフ文学を彷彿させる(← 当然だ)叙述に遭遇する。
上述したように、本日記でヴァージニアの人間や文学活動の全般を推し量るのは、無謀なのだと承知しつつも、それでも、作家の生活の不安や懐疑、疑心暗鬼、世間や知り合いの評価への怯えにも似た疑心暗鬼が書かれており、これほどの天才的な作家であっても、世間の評価に過敏なほどに影響されるものかと驚かされる。
また、何度も何度も書き直し、ようやく出版社に原稿を送付したときの、一瞬の安堵感と、その後のあれでよかったのかという後悔の念にも似た感情の揺れ動きが痛々しい。
本書では、直接的には分からないのだが、精神的に極めて不安定だった作家を夫のウルフが支え続けた功績の大きさも、想像以上のものがあるのだろう。
その意味で、ヴァージニアにとっても、文学にとっても、夫のウルフの存在と功績の大きさをどれほど評価しても足りないとも思う。よき出会いだったなーと思う。
← ヴァージニア・ウルフ著『ある作家の日記 【新装版】』(神谷美恵子 みすず書房) 約十年ぶりに読んだよ。
さてでは、文学とは何なのか。ウルフは、創作に喜びを感じていて、文学が救いだったようでもある。
世間の評価や、叙述の上での迷いも苦労もあって、それらを上回る、創造の喜びがあったのだろう。
では、文学とは、作品の出来の良しあしなのか、出来上がった作品にこそ値打ちがあるのではなく、創作すること自体に(少なくとも作家にとっての)意義があると言うべきなのか。
では、文学作品を読むわれわれ……わたしは、どういう存在なのか。作品を買うことで作家を支える存在? (ちなみに、ヴァージニアは中流階級の人間で生活に窮することは皆無に近かったらしい。) 読む楽しみを享受している…受動的な存在?
もっと突き詰めると、さて、他人はいざ知らず、自分は文学に何を求めているのだろう。
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