庭を彩る花たち
← ジャーマンアイリス
今年もほんの数株だけど、咲いてくれた。一昨日は気が付かなかったから、昨日の晴天で一気に開花したのだろう。
小生が帰郷した当時は、父母も健在で、庭には多種多彩な花々が見られた。父母が庭や畑の世話や手入れをできなくなってからは、小生の役目となったが、そこはそれ小生の生来の杜撰さと不器用さとが相俟って、今では庭も畑も昔日の面影は見る影もなくなっている。
花々にしても、帰郷した当初の数年は、花の苗や種を買ってきて、家の周りに何か所かある花壇に植え育てたものだ。が、結局は、手植えしたものの大半は、一年で死滅し、最後に残った花はというと、繁殖力や生命力の強い植物で、小生がよほど邪魔をしない限り、自力で生き延び育ち咲くような種類に限られてくる。
樹木の花は別儀として、今前後の時期、我が家の庭を彩ってくれるのは、ドクダミ、このジャーマンアイリス、ムラサキツユクサ、夕顔、オダマキ、釣鐘水仙や黄水仙など水仙各種、タンポポ、ムスカリ、姫女苑 (ひめじょおん)など。
→ ムラサキツユクサ
繁殖力や成長する力が強いようだ。五月の連休の過ぎたころからポツポツと咲き始め、だんだんその数を増し、六月ころには最盛期を迎え、七月どころか八月までも咲いていてくれる。地味だけど、我が家には貴重な、けなげな花である。
ムラサキツユクサについては、本ブログでも幾度となく採り上げたことがある:「我が家の庭は紫なり(前編)」 そこにも書いてあるが、「ムラサキツユクサは、夕方になると花を閉じてしまう」わけで、アサガオじゃないが、ムラサキツユクサは、花の乏しい我が家の庭にとって、朝(午前中)の顔である。
← ツツジ……だろうか
我が家の庭にはツゲと混じって、ツツジも数多く植えられている……ようだ。ようだ、というのは、我が家のツツジは毎年は咲かない。隔年で、あるいは数年に一度、ほんの一株か二株のツツジが、しかも、近隣のツツジとは比べ物にならないほどに、貧相な咲き方で咲く。昨年は咲いたかどうか記憶にない。それが、今年は、我が家にしては、驚くほどに方々のツツジが咲いてくれる。白い色のツツジもあれば、よく街中で見かけるような、赤紫色のツツジである。
そんな中、車道沿いの花壇にツゲに混じって、こんなところにもツツジの樹があったのかと気づかされるのが、このツツジで、淡いピンク色の花を咲かせる。というか、そもそもツツジなのかどうかも分からない。
「路傍のツツジ」では、街中のツツジは、「昼も綺麗だけど、夜もヘッドライトに浮ぶ赤紫や淡いピンクや真っ白のツツジたちは疲れたり神経が苛立ったりする小生を慰めようと微笑んでいるようだ」なんて、書いている。
アスファルト(やコンクリート)の沙漠である街中で、ツツジの花は目や心の癒しなのである。
ところで、今日、お昼頃、庭木の剪定をした。といっても、実は、庭木の一部の木の葉っぱが茶褐色に変色しているのだ。緑濃くなるはずが、なぜか枯れる葉っぱが目立つ。何かの病気なのだろうか。
なので、剪定というより、虫か感染症に犯されている葉っぱを、枝ごと、高枝ハサミで切り落とす作業の必要に迫られてのことなのだ。
真相は分からない。誰か、専門家に訊ねるしかないのだろうか。
関連拙稿:
「ジャーマンアイリスは我が家向き ! ?」
「ジャーマンアイリスの季節へ」
「我が家の庭は紫なり(前編)」
「躑躅(つつじ)と髑髏と」
「ツツジの季節が始まる」
「ツツジの宇宙」
「ツツジの季節の終焉…緑滴る」
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