数学(複素数)から創作を想う
今日も畑仕事。昔は我が家の田圃で、今は人の手に渡ってしまい、(管理名目で)借りている小さな畑。
数メートル区画の狭い畑だが、先祖来、ずっと田圃だった土地。
← 岡 潔 (著) 『一葉舟』 (角川ソフィア文庫) 「「人が現実に住んでいるのは情緒としての自然、情緒としての時の中である」西欧的な物質主義ではない、日本的情緒の大事さを説き続けた岡潔。その思想の根底にはつねに仏教の叡智があった」となると、たださえ数学音痴の小生、全く理解不能である。
何かしら野菜を植えて、畑として維持させるのが小生の役目である。
まだ、何を植えるか決めていない(この一角では、トウモロコシ、スイカ、カボチャ、ヒマワリ、ゴーヤなど、年毎に違う野菜を育ててきた)。
とりあえず、耕し、施肥し、雑草を抜き、近くの農業用水路を溝浚い。
多少の日にちを置いて、今年植える野菜を決めるつもり。さて、何にしようか。
余暇には読書。ハーディの『テス』やら、岡潔の随筆などを読んでいる。
岡 潔 著の 『一葉舟』を読了した。下にも書いたが、ほとんど理解不能だった。最後は流し読み(というか、流しただけかもしれない)。
以下、数学と創作を巡るエッセイを採録しておく:
(前略)尤も、そこで分かったことは、ただ一つだったかもしれない。それは、複素数というのは、誰かから教えられたようには、あるいは字面から受ける印象とは違って、決して虚構の数、計算上、数学の体系上の都合で便宜上<存在>する数なのではなく、<実在>する数なのだということ。
ある意味、このことは、小生の凡脳では理解が及ばないと直感しつつも、単に数学に観念を限ってさえも、とてつもなく巨大な、掴み所のない世界が広がっていることの啓示だった。
啓示…。そう、そのような言葉を使って表現しても、必ずしも大袈裟な体験ではなかったように思う。
小生、この数年は特に虚構作品の制作に熱中している。その際、現実の体験には拘らないということを旨としている。
その意味は、決して現実を無視するとか、現実離れした物語を構築するということではなく、現実が人間の(実際には小生の)限られた能力、想像力、妄想力、五感(感官)に制約されているのだとしても、取りあえずは、現実の背後の、現実を囲繞する、現実をその中のほんの極小の点にまで相対化させてしまうところの、想像を絶する空間の端緒であり入り口として大切なのであって、そこから先には、意想外の虚構空間が広がっているのだと常に思いながら虚想を練るようにしているという意味である。
自分の中の規範や固定観念や常識や情念などクソ食らえと虚構の海に飛び込んでいくのだ。
複素数を知った時と似たようなカルチャーショックというと、陽電子の発見のドラマがある。実際には発見したのは、アンダーソン(ら)ということになるのだろうが、理論的には、ディラックが反粒子の理論を導き出している。このディラックがこの概念を導き出す過程が、ファンタジックなのである。
あるいは中間子の理論と、その発見。
現実の時空においても、というか、人間の情念、生物の存在、あるいは物質についてさえも、恐らくは、まだまだ概念・観念・理論・情念の拡張の余地がある…。
そう思うと、眩暈の生じそうなほどに官能的になり恍惚とさえしてくる。
それにしても、人は分かるもの、感じられるものしか分からないし感じられない。複素数にしても、紀元1世紀の頃、アレキサンドリアの数学者で発明家であるヘロンが、既に負の数の平方根について思いを巡らしていたという。
ということは、小生などがやっとのことで、それも、朧にしか感じられないでいる複素数の観念も、二千年昔の人物の脳味噌に萌芽した観念にさえ敵わないということ。このことを翻って考えると、現代の数学者が考えている数学の観念など、想像を絶するということだ。
同じことが、あるいは、文学や芸術にも言えるのかもしれない。単純な比較も連想も愚かしいことだろうが、数千年前の誰かの頭か胸に感じた情愛なり美の観念なりを小生如きがやっと仄かに感じているだけなのかもしれない。
現代の芸術作品を見て、あるいは音楽に触れて、それなりに感動しているようなつもりになっていても、実は、とんでもなく素朴で、もっと言うと原始的な地平で、勝手に分かったようなつもりでいるだけなのかもしれない。
隣りにいる感受性と知性とに優れた方が、海の彼方の、あるいは海の底の神秘と美と抽象的な、しかし、彼には実感している調和を見詰めているというのに、小生は、波飛沫に感動し、あるいは波打ち際の貝殻を拾って、その模様を見て、ああ、綺麗といっているようなものだろうか。
← 岡 潔 著『春宵十話』(毎日新聞社) 「数学は論理的な学問である、と私たちは感じている。然るに、著者は、大切なのは情緒であると言う。人の中心は情緒だから、それを健全に育てなければ数学もわからないのだ、と」も。そう言われても、(数学の成績は)ダメなものはダメだった。でも、中学時代以来の数学への憧れまでが消え去ったわけじゃない。
そうはいっても、自分の頭と心で何事も対処せざるをえないのだから、どんなに人に遅れた道であっても、自分の足でトボトボ歩いていくしかないのだが。
(拙稿「複素数から虚構を想う」(2010/01/24)より抜粋)
「春宵花影・春宵十話」(2005/04/02)
「森田真生著『数学する身体』から岡潔著『春宵十話』へ」(2016/01/13)
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