ジョイスにポール・W・ルイスにジュネに
風が吹き荒れると、いつものことだが、庭の樹木の葉っぱが吹き千切られ、庭中のあちこちに吹き溜まり、さらには、溝(どぶ、と呼ぶべきか、用水路と呼ぶべきか)に葉っぱや枝、更には何処からともなく吹き込んできたゴミが溜まっている。
むろん、バケツやら刈り込んで堆積しておいた枝葉類も散在。
昨日は、それらの片づけやら溝浚いやらで過ごす羽目に。
それでも、読書だけは欠かすまいと、ジョイス 著の『ダブリンの市民』を読了させ、読み止しになっていた、ジュネの『泥棒日記』の続きに着手。
『ダブリンの市民』は、それこそ数十年前に読んだことがあるのだが、すっかり内容は忘れている。
ジョイスというと、『フィネガンズウエイク』を柳瀬訳で一度、『若き芸術家の肖像』は三回ほど、読んだだけ。『ユリシーズ』は、全く手つかずのまま。今月初め、とうとう四巻本を入手したので、プルーストの『失われた時を求めて』の合間に読んでいくつもりでいる。
さて、読了した『ダブリンの市民』は、何とも言い難い味わいだった。暗く鬱屈したダブリンの市民たちの、暗鬱な生活が描かれ、読む自分の気分までが暗くなる。
特に、女性の立場が誰かの言葉ではないが、出口なしで、息苦しいほどである。
車中では、ウルフの『自分だけの部屋』を読んでいるのだが、こちらも、時代の世相を映し出していて、女性の置かれた厳しい状況をこれでもかと感じさせる。
こうした状況というのは、絵画作品やまして音楽作品を鑑賞していても、なかなか窺えない世界なのではないか。小説だからこそ、描けた世界なのだろうと思う。
← ジョイス (著)『ダブリンの市民』 (結城 英雄 (翻訳) 岩波文庫)
と言いつつ、今はジャン・ジュネの『泥棒日記』に取り掛かっている。
性的にも、経歴の上でも過去のある人間には、選択の余地の乏しい中で、敢えて負の世界の美、ベクトルが通常の世間を生きる人間とはは逆向きを指す<犯罪者たち>の、それでいて豊穣なる世界を描いて、秀逸なのである。
人間の世界のなんと奥深いことよ!
[ 末尾に掲げた本の表紙画像以外は、いずれも、オーストラリアの画家ポール・W・ルイス(Paul W Ruiz)の作品。今日、フォローしている、某ツイッターでその存在を知った。何と力強い筆致であることか。それにしても、なぜ、どの絵も描かれる人物の目は閉じられているのか。 (画像は、「artodyssey Paul W. Ruiz」より) (「Paul W Ruiz あったかギャラリー|Attaka Gallery」など参照)]
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