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2016/03/12

今日は呟くように愚痴の数々

 即席ラーメンの封を開けようとしている。なかなか開かない。指先に力が入らないようだ。
 何とか開いた。でも、難儀は続く。

Symmetry

← ヘルマン・ヴァイル著『シンメトリー』(遠山啓 紀伊国屋書店) 「美術,建築,デザイン,生物学,化学など多彩な素材を駆使して,芸術や自然の世界に伏在する〈シンメトリー〉という事実を拾い上げ,その間をつらぬく統一的原理を探り,現代数学における〈群〉概念を説明する」とか。自宅では本書を、車中の待機中は、本稿末の三木 成夫著『生命とリズム』を読んでいる。

 今度は、汁の入った小袋の封が開かないのだ。何処かに開けるための切り口があるはずだ。でなければ、この側面だったら何処でも指先で開けやすいよう、うまく塩梅されている……なんて表示してあるはずだ。が、切り口が見えなけりゃ、開けやすい工夫が示されているはずの文字が読み取れない。 
 一事が万事、こうだ。汁の入った袋の開け方は商品ごと、メーカーごとに違う。統一しろよって言いたくなる。

 今日はごみの収集日だった。台所のゴミも袋にいっぱい。居間や洗面所脇のゴミ箱のゴミも袋に詰め込んで、できるだけいっぱいにして、封をする。中身をギュッギュッと押し詰めて、退席を縮める。袋の中の空気を可能な限り排出して、ゴミ袋をパンパンにさせて、ゴミ収集所へ。

 さて、台所に変わりのゴミ袋をセットする。やはり、封を開けないといけない。が、指で封の口の辺りを擦ったりするのだが、昔のようにはすんなり開いてくれない。しまいには、気の短い小生のこと、癇癪を起して力づくでこじ開けようとする……が、なんとか我慢できた。
 あーあ、仕方がない。指先を唾で湿らせて、ビニール袋の口を擦って、そうしてやっと、口が開く。

 そういえば、自分がまだ若いころ、お年寄りが財布から紙幣を取り出し、そのうちの一枚か二枚を数えるのに、指先を舌でベロッと舐めて、そうして札を一枚一枚と数えるその仕草が嫌いだったことを思い出す。
 そうしないと、皮膚に潤いがなくなって、紙幣を一枚ごとに選り分けるのが難しいと、自分が年を重ねることで実感を以て理解できるようになった。

 分かるまでは、いかにも老人臭い仕草で嫌悪を抱くばかりだったっけ。
 いや、自分でやっていても、その仕草は嫌だ。せめて人前ではやらずに済ませたい……とは思うけれど、もっと年齢が嵩むと、そんなデリカシーなんて余裕もなくなってしまうのか。
 
 ああ、これまたそういえば、財布からお金を取り出す様子から思い出したのだが、お年寄りなどが俯く際、メガネが鼻先に、落ちないギリギリのところで乗っかってて、ああ、見えづらいのかなとは分からなくもなかったが、これも年より臭い仕草だなーと、鬱陶しかった。
 でも、あれは老眼鏡のせいなのだ、いや、遠視のせいなのだ。近くの本や新聞の活字など、細かいものを視る際には、俯くしかないし、老眼鏡……つまりは拡大鏡の力を借りないといけない。
 一方、見るのか風景とまではいかなくても、部屋の様子や人の顔など、間近じゃなかったら老眼鏡(拡大鏡)の力を借りなくてもいいので、眼鏡を介さず、肉眼で相手や風景を見る。

 だったら、眼鏡を外せよってことになるのだが、最初は面倒がらずに必要がなければ外していても、そのうち、老眼鏡の置き場所を忘失したり、あるいは外したり掛けたりが億劫になって、やや離れた場所だと老眼鏡を鼻先までずらし、雑誌の活字などを追う際には鼻先に引っかかっている老眼鏡の世話になる。
 眼鏡が鼻先に引っかかっている顔が滑稽でもあり、哀れでもあり、みっともなくもあったりするが、それが今や自分が当事者となって、周りから憐れまれるようになっている!

 歩くのも億劫だ。いや、人前では背筋を伸ばしてしゃんとして歩いてみせるのだが、気が付くと背中が丸くなって、歩く歩幅が小さくなったり、歩くペースが遅くなったりしていく。
 重力には勝てないのだ。さっさと早く歩いているつもりなのだが、その脇を若者がゆったりした足取りで自分を追い抜いていく。別に追い越そうとしているのじゃなく、普通に歩いているだけであり、こちらは内心ではきびきびと見えるようにと懸命に歩いているのに、あっさりと先を行ってしまう。

 悔しいのだが、そんな気持ちは素振りに見せたりはせず、こっちは余裕綽々でゆっくり歩いているんだから、若者が先を行くのは気にしていないよと見せかけようとする。誰も気にしていないのに、一人相撲である。で、どこかの角を曲がった、誰の視線も気にする必要のなくなったところで、こっそり落胆の溜め息をそっと吐く。

Liferism

← 三木 成夫【著】『生命とリズム』(河出文庫) 十数年前、名著『胎児の世界』を読んで以来のファン。刊行された本は可能な限り購入し読んできた……が、東京から富山へ帰郷の引っ越しの際、全て失った。我が富山でまた、一冊ずつ集め、読んでいくつもり。解剖学(や生物学)的には、やや古くなった個所もあるけど、概ね今でも通用するようだ。まあ、学説的に云々するより、とにかく想像力を刺激してくれる。次は、何をさておいても、『胎児の世界』だな。

 いやいや、そんな数々などどうだっていい。一番、我ながらがっかりなのは、花や星や月を眺めても、以前ほどには感動しなくなったことだ。感性が鈍ったのだろうか。見飽きたのだろうか。
 実はそうではないのだ。単純に視覚や嗅覚などの感覚能力が鈍ったのである。

 晴れ渡った夜空のはずなのに、月影の輪郭線が曖昧になり、あるいは新月か二日月で月光が弱いのに、夜空の星が瞬いて見えない。星々が鏤められている…なんて表現はおこがましくて口にできない。星々たちが、単に煌きの弱まった細かなガラスの粉が夜空に散在しているだけに見えてしまう。

 梅の香も漂ってこず、隣家の木蓮の香もとっくに忘れてしまった。
 そのうち、女の色香にもときめくことがなくなってしまったりしたら、もう、男としてお終いである。今のところ、そこだけは、まあ、熾火程度にだが、消え去っていないが、その日の到来の遠からざることをなんとなく予感して戦々恐々な気分を否めないのは、気のせいと思いたい。

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コメント

かなりきてますね。
まったく私の実感に重なります。

投稿: OKCHAN | 2016/03/12 13:20

一昨日も失敗しました。
OKCHANさん

数え上げたらきりがないほど、愚痴のネタがあります。

リール式の水道で散水。先端のホースからの水はレバーを閉めれば止まる。
普通なら元栓を閉めるはずが、うかつにも忘れて……翌日、お昼頃、玄関を開けて庭に出て、庭の一部が水浸し。
晴天なのに、なぜ、その一角だけ水だまりが?

やっと気づいて、元栓を止めた。

昨日は、また、トイレの電気を点けっぱなし。一晩中!

こういう現象が増えていることが情けない。

投稿: やいっち | 2016/03/13 16:58

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