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2016/03/20

三木成夫『生命とリズム』から「憶」へと

 三木成夫著の『生命とリズム』を読了した。改めてメタモルフォーゼの解剖学者・三木成夫ワールドを楽しんだ。

Memory

← 三木成夫著『生命とリズム』(河出文庫)

 既に同氏については、いくつかの拙稿をメモって来たので、今日は別の話題を。
 上掲書中で、「憶」を巡る記述があって、印象的だった。

 まずは、当該箇所を転記する:

「記憶」という文字の持つ本来の意味は、まさにこうした機能(このからだには、代の上に代を重ね乍ら、絶えず外界からおのれの肉体に至適の条件を取り入れて、いわば血肉に変えていく根源的な同化の機能が備わっている…)を言ったものではなかろうか。もともと「憶」はその本字「啻」の象形が物語る様に、それは「言中也」すなわち「快」を意味する。いわば暑くも寒くもない肉体の快適な状態を表した文字であるが、われわれのからだと言うものは、諸々の肉体条件の中から唯ひたすらnこの「憶」を求め、生活の大半をこの状況下で過ごすところから、何時の間にか根強くこれに馴染み、遂にはこれがおのれのからだの〝いつもの〟調子として自らの肉体に「記」される。言い換えれば、おのれの肉体条件のまさに原形として体得されることとなるのである。記憶とは、従って、おのれの至適条件を肉体に銘記する、それは「原形体得」のいわば根源の形態となる。その生命的な推移の故に、ひとびとはこうした本来の意味での記憶を「生命記憶」と呼ぶ。(p.258)

 以下、「さて、この様な性能は人間だけのものではないであろう。」云々と続くのだが、あとは略す。

 小生、十数年の昔、「憶」にこだわった小説とも呼べない短編を幾つか書いたことがある。末尾にその一部を抜粋してみる(掌編を仕立てるに際しては、学的な厳密さは犠牲にして、もっと一般人の妄想的な想像に引きずられるように表現しているが)。

 どうやら、小生、三木氏の諸著に影響されて変てこな掌編を綴ったらしいのだが、残念ながら記憶が曖昧である。
 だが、名著中の名著で、小生自身、何度か読み返した三木氏著の『胎児の世界―人類の生命記憶』(中公新書)の中に、やはり、「味覚の根原――「憶」の意味」という項があり、そこには下記のようにある:

「記憶」とは「憶を記す」ではあるが、この「憶」は「啻=言中也」と『説文解字』にあるように、いわば、寒くもない暑くない、あるいは空腹でも満腹でもない、そういった過不足ない状態を象るものといわれる。ここでは、だから、温度や胃袋の存在そのものが忘れられているのであるが、ここでわたしたちの日常をふりかえってみると、じつは一日の大半をほとんど無意識のちにこの状態で過ごしていることがうかがわれる。という以前に、すでに肉体のほうがひとりで動いている、ともいうことができる(以下、略。「三木 成夫著 『胎児の世界―人類の生命記憶』」参照)。


 以下は、拙稿より抜粋:

 

 神がいて、神は彼の存在に気づいてくれるだろうか。
              (中略)
 神は地上のありとあらゆる命の泉に熱い眼差しを降り注いでいる、そうに 違いないのだ。
 けれど、彼はそこに想像の翼を休めることは出来ないのだった。
 人が死ねば土に還る。土と風と少々の埃に成り果てる。植物だってそうだ。 腐って土に還ることもあろうし、動物に喰われて消化され動物の血肉になっ たり、あるいは排泄され土に戻る。一旦は血肉になった植物の構成要素も、 当座の役割を果たしたなら、遅かれ早かれ廃棄されるか、あるいは動物の連 鎖の何処かの網に引っ掛かるだけのこと。
 食物連鎖の最終の網である人間に、途中の段階で他の成分に成り代わらな い限り、植物も動物も至りつく。が、それにしても、同じことだ。やっぱり 火にくべられて、夢と風と煙に化す。そうでなければ、灰となって土中の微 生物の恰好の餌になるだけのことだ。
 ということは、神の慈愛に満ちた眼差しはとりあえず今、生きている存在 者たちに注がれるだけでなく、土や埃や壁や海の水や青い空に浮かぶ雲や、 浜辺の砂やコンクリートやアスファルトやプラスチックやタール等々に、均 しく注がれているはずなのである。
 神の目から見たら今、たまたま生きている生物だけが特別な存在である理 由など、全くないのだ。あるとしたら人間の勝手な思い込みで、自分たちが 特権を享受している、神の特別な関心が魂の底まで達しているに違いないの だと決め付けているに過ぎないのだ。
 この私である彼は、空中を浮遊する塵や埃と同一の価値をもつ。価値とは 神からの恵みだ。その恵みは地上だろうが、あるいは宇宙空間だろうが、全 く等距離の彼方にある。それとも、全く、等距離のすぐそこにある。
 宇宙の永遠の沈黙。それはつまりは、神の慈愛に満ちた無関心の裏返しな のである。神の目からは、この私も彼も、この身体を構成する数十兆の細胞 群も、あるいはバッサリと断ち切られた髪も爪も、拭い去られたフケや脂も、 排泄され流された汚泥の中の死にきれない細胞たちも、卵子に辿り着けなか った精子も、精子を待ちきれずに無為に流された卵子も、すべてが熱く、あ るいは冷たい眼差しの先に厳然とあるに違いないのだ。
 この私とは塵や埃と同然の存在。それは卑下すべきことなのか。  そうではないのだ。むしろ、この地上の一切、それどころか宇宙にあると ころの全て、あるいは想像の雲の上を漂う想念の丸ごとが、神の恵みなので あり、無であると同時に全であることを意味しているのだ。
 私は風に吹き消された蝋燭の焔。生きる重圧に押し潰された心のゆがみ。 この世に芽吹くことの叶わなかった命。ひずんでしまった心。蹂躙されて土 に顔を埋めて血の涙を流す命の欠片。そう、そうした一切さえもが神の眼差 しの向こうに鮮烈に蠢いている。
 蛆や虱の犇く肥溜めの中に漂う悲しみと醜さ。その悲しみも醜ささえも、 分け隔ての無い神には美しいのだろう。
 私は融け去っていく。内側から崩壊していく。崩れ去って原形を忘れ、この宇宙の肺に浸潤していく。私は偏在するのだ。遠い時の彼方の孔子やキリ ストの吸い、吐いた息の分子を、今、生きて空気を吸うごとに必ず幾許かを 吸い込むように、私はどこにも存在するようになる。私の孤独は、宇宙に満 遍なく分かち与えられる。宇宙の素粒子の一つ一つに悲しみの傷が刻まれる。
 そう、私は死ぬことはないのだ。仮に死んでも、それは宇宙に偏在するた めの相転移というささやかなエピソードに過ぎないのだ。
          「夢を憶する」(03/02/09)

 

 裕太は出産を頭の中で想像する。けれど、必ず、産道で立ち往生する自分に行 き着いてしまうのだった。そして裕太を押し潰す岩盤。真っ赤な分厚い肉の壁が 自分を飲み込み、押し潰そうとしている…。息が出来ない。懸命に肺を動かそう とするのだけれど、圧迫された胸は微動だにしない。
(俺は死にそうだ。)
 すると、不意に世界が真っ赤になった。それとも純白に輝いた。裕太の瞳を焼 き焦がした。弱々しい産道の蠢きが、ついに止まった。天が引き裂かれたのだっ た。あまりに不意な天の箴言の閃きだった。産道は、一気にだらしないほどに広 やかになった。道端に股を開いて、行過ぎる誰にも体を開く女だった。誰でもど うぞ、と言わんばかりだった。裕太は産道との接触を失った。息苦しいほどの母 胎との密着管が無理矢理に奪われた。子宮からも膣からも女の肉体からも断ち切 られた。肉が引き剥がされたようだった。絆を失った。世界は空っぽになった。
           「憶の海へ」(03/02/16)

 
闇 に輝き匂い立つ白い肌。手の平を翳すだけで温もりが熱い。肉体。肉の海。どこ までも広い海原のような白い闇。ひとたび、足を踏み入れたなら、どんな底なし 沼より深く嵌り込んで行く。裕太の体で簡単に覆い尽くせるほどの体なのに、裕 太には無間の海に思える。際限のない責め苦に思える。しかも、裕太が自らのめ りこむ地獄と背中合わせの放蕩と遊蕩の海。

 分け隔て識別し分類し、その中でちっぽけでもいい、自分の居場所を求める。 脳の表面の何処かに傷をつけてでも、自分を実感する。波間に首を竦めるように して裕太は生きている。生れた時に人生に生れ落ちるはずが、この世に産声を上 げるはずが、母体を切り裂くメスの切っ先にしがみ付いてしまった。この世の光 が怖くて、メスにしがみ付いて離れられなかった。
 だけど、しがみ付けば付くほど裕太の心も体も切り刻まれてしまうのだった。 メスの煌きに目も心も焼き焦がされてしまった。だから、裕太とは、肉の欠片、 心の断片、拾い集められたゴミ、踏み潰された愛、踵(かかと)と大地の間に滲 み出した体液、捻られ串刺しにされた目玉、二次元空間より酷薄な戯画だった。
         「憶の化石は夢見るか」(03/03/23)

関連拙稿:
三木成夫著『人間生命の誕生』
三木成夫の世界再び
肉体なる自然を解剖しての絵画教室!
はじまりはダ・ヴィンチから
養老孟司著『毒にも薬にもなる話』余談
養老孟司著『毒にも薬にもなる話』
西原克成著『内臓が生みだす心』

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