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2016/03/28

春眠惰眠暁を覚えず妄想的考察(前篇)

 チンパンジーなど、お猿さんたちがHが大好きなことは知られている。こればっ かりは体力の差もあり、人は全く敵わない。自慰の回数でもHの回数でも、太刀打 ちなど論外である。人がマリファナや催淫剤などを使ったって、Hの量も快楽の度も、たかが知れている(という)。
 ところで、しかし、お猿さんたちと人が違うのは、Hの質であり、Hへの思い入 れ(想像、妄想、etc.)であろう。
 小生は、若い頃、お猿さんの活躍ぶりを眺めながら、当時自身も若かったことも あり、何故、お猿さんはあんなに凄いのだろうと感嘆したことがある。そしてある 日、閃いたのだった。
 といっても、思いついた着想というのは、極めて平凡なもので、きっと多くの方 も(特に男性?)一度は想像されたビジョンなのではないかと思う。

 それは、昔、チンパンジーの中で、とてつもなく助平な奴がいて(しかも、それ はカップルっだったと思う)、そいつは、チンパンジーの仲間が通常行う営為を遥 かに越えたHの天才だったのだ。
 奴(奴等)は、通常のバックスタイルや正常位だけでは飽き足らず、しかも、単 なるピストン運動に終始することに満足することなく、二匹が互いに性的快楽の限 りを尽くしたのではなかったか。
 つまり、奴等は、ペニスと膣との摩擦だけではなく、ある日、互いの体表を愛撫 することに、また、異様なる視覚から互いの体の交わる光景を眺めることに、思いもよらない快感の領野があることに気づいた(感づいた)のだ。
 すると、奴等は互いの体表を、心行くまで快楽の泉の源としてとことん追究し始めたのである。
 奴等は、性の狩人となったのだ。
 そうしてあまりに互いに体の表面の愛撫と慰撫の心地よさに溺れたため、気がつ いたら体毛が擦り切れてしまったのである。
 また、体位に関しても、並みのチンパンジーなど足元にも及ばない可能性を追究 したのであった。バックや正常位を堪能し、横向きから斜めから逆立ちから宙返り から、正面衝突から、草原を(水辺を)駆け巡りながら、可能性の限りを追ったわけである。
 彼らは寝転がってHをするだけではなく、仕事(餌を採集するなど)をしながら もHを欠かさなかった。つまり、立って片手は餌に手を伸ばしながらも、もう片方 の手はしっかり相手を愛撫することを忘れなかったわけだ。Hは全身をフルに使ってやるものと性的本能が奴等をして使役していたのだ。
 気がついたら彼らの身体は、通常のチンパンジーとはまるで違う形態に変貌していた。
 まず、体毛がすっかり擦り切れ肌が露出していた。身体が四足の奴等と違って、 体位の可能性の限界を尽くしえるため、特に長時間の立位でのHに耐えられる体で あることを求められている中で、まさに二足歩行たる人類に既に一歩踏み出していることを知ったのである。しかも、Hへの想像力は、二足歩行となって頭蓋の成長 の自由度を既に得ていた頭(脳)を爆発的に膨張させ進化させたのである。
 奴等は快楽を得た。が、孤独だったに違いない。なんといっても、そんな容貌魁 偉な(裸で立ちっ放しのサル!)仲間など、圧倒的に少数だったに違いないから。 しかし、奴等は断固、Hを追究するチャレンジ精神は失わなかった。というより新 たに得た快楽の楽園は、孤独を癒すにはあまりある耽美の世界だったし、もう、後戻りなどできなくなっていたのだ。
 そうしたエリートは、やや寂しげに、しかしバラ色というよりピンク色の未来に希望を抱きつつ、チンパンジーの群れとは別れを告げ、新たな集団を作ったのだ。
 なんといってもスケベ心と繁殖力は旺盛だったし、そうした性のエリートに追随 し真似する仲間も少なからずいただろう。
 そうしてサルはヒトになったのである。


[「『ヒトはいかにして人となったか』(蛇足篇)」(02/04/14)より抜粋。ほんの一部、改稿。春なので、旧稿ではありますが、雄的観点に偏りつつも、性的妄想を逞しくした迷論を再掲してみました。考察はまだまだ続きます。]

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