上野 千鶴子『発情装置』を読む…男女の非対称は死に至る病
上野千鶴子著の「発情装置 新版」 (岩波現代文庫) を読んだ。富山出身ということもあり、前々から気になっていた書き手(学者)。ようやく手にした。冒頭から、ズケズケ言う語り口にびっくり。小気味いいね。人気が出るわけだ。
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目次(本文)の冒頭に、「おまんこがいっぱい」なんてあって、これを男性が書いたら顰蹙ものだが、上野さんだからこそ、ありなのだろう。
個人的には、「北村透谷をめぐって」という章が面白かった。北村透谷が恋愛讃歌を唱っているようで、その実、女性嫌悪の情に凝り固まっていることを的確に指摘。恋愛の非日常を称揚しつつ、結婚の日常と保守性とを憎んでいると喝破。男たちの無責任な自己中心性を嘆いている。
ホント、小気味いい文章である。
上野さんには、女を知らない初心で自己中心的な野郎とののしられそうな、小生の過去の一文を敢えて転記して示してみる。男女の非対称性は死に至る病なのではなかろうか:
女性が初めて化粧する時、どんな気持ちを抱くのだろうか。自分が女であることを、化粧することを通じて自覚するのだろうか。ただの好奇心で、母親など家族のいない間に化粧台に向かって密かに化粧してみたり、祭りや七五三などの儀式の際に、親など保護者の手によって化粧が施されることもあるのだろう。薄紅を引き、頬紅を差し、鼻筋を通らせ、眉毛の形や濃さ・長さそして曲線を按配する。項(うなじ)にもおしろいを塗ることで、後ろから眺められる自分を意識する。髪型や衣服、靴、アクセサリー、さらには化粧品などで多彩な可能性を探る。
見る自分が見られる自分になる。見られる自分は多少なりとも演出が可能なのだということを知る。多くの男には場合によっては一生、観客であるしかない神秘の領域を探っていく。仮面を被る自分、仮面の裏の自分、仮面が自分である自分、引き剥がしえない仮面。自分が演出可能だといことは、つまりは、他人も演出している可能性が大だということの自覚。
化粧と鏡。鏡の中の自分は自分である他にない。なのに、化粧を施していく過程で、時に見知らぬ自分に遭遇することさえあったりするのだろう。が、その他人の自分さえも自分の可能性のうちに含まれるのだとしたら、一体、自分とは何なのか。
仮面の解釈学。
思えば、スカートは不思議な衣装だ。風が吹けば、裾が捲れ上がり、場合によってはパンティがちらつくこともある。実際、幼い女の子だと、そんなこともしばしばなのだろう。が、白い(とは限らないが)パンティがちらつくと、仮にそこに男性がいたら、刺すような視線を感じる。最初は気のせいで、しかし、やがてはまざまざと、明らかに、文句なく、断固として刺すようなギラつく眼差しをはっきりと意識する。スカートの裾の現象学は、きっと化粧という仮面の現象学と何らかの相関関係があるに違いない。やがて、スカートの裾が風に揺さぶられることがあっても、あるいは思いっきり(であるかのように)駆けても、決して裾が捲れあがることのない揺らぎの哲学を体験を通して体に身に付ける。素直であり自然でありつつ、その実、装っているのであって、<外>では、あるいは<外>に対しては決して無自覚や無邪気などということのありえない、一個の女が誕生するというわけである。
仮面は一枚とは限らない。無数の仮面。幾重にも塗り重ねられた自分。スッピンを演じる自分。素の自分を知るものは一体、誰なのか。鏡の中の不思議の神様だけが知っているのだろうか。
男の子が化粧を意識するのは、物心付いてすぐよりも、やはり女性を意識し始める十歳過ぎの頃だろうか。家では化粧っ気のないお袋が、外出の際に化粧をする。着る物も、有り合わせではなく、明らかに他人を意識している。女を演出している。他人とは誰なのか。男…父親以外の誰かなのか。それとも、世間という抽象的な、しかし、時にえげつないほどに確かな現実なのか。
あるいは、他の女を意識しているだけ?ある年齢を越えても化粧をしない女は不気味だ。なぜだろう。
町で男に唇を与えても、化粧の乱れを気にせずにいられるとは、つまりは、無数の男と関わっても、支障がないという可能性を示唆するからだろうか。それとも、素の顔を見せるのは、関わりを持ち、プライベートの時空を共有する自分だけに対してのはずなのに、そのプライベート空間が、開けっ放しになり、他の男に対し放縦なる魔性を予感してしまうからなのか。化粧。衣装へのこだわり。演出。演技。自分が仮面の現象学の虜になり、あるいは支配者であると思い込む。鏡張りの時空という呪縛は決して解けることはない。
きっと、この呪縛の魔術があるからこそ、女性というのは、男性に比して踊ることが好きな人が多いのだろう。呪縛を解くのは、自らの生の肉体の内側からの何かの奔騰以外にないと直感し実感しているからなのか。いずれにしても、踊る女性は素敵だ。化粧する女性が素敵なように。全ては男性の誤解に過ぎないのだとしても、踊る女性に食い入るように魅入る。魅入られ、女性の内部から噴出する大地に男は平伏したいのかもしれない。
そんな戯言を繰って、一生、訳の分からない酔夢から覚めることのできないのも男の性(さが)なのだろうか。(「初化粧」(2005/01/11)より抜粋。一部改変。)
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コメント
化粧にはいいイメージがありませんでした。
母が化粧下手だったからでしょう。
普段はすっぴんなのですが、電車に乗って出かけるときや、授業参観のときなどには化粧をします。
しかし、厚ぼったい唇に真っ赤な口紅を塗りたくり、全然美しくありません。
むしろ、普段の母の方がいいのにとガッカリしました。
匂いもイヤでした。
今は無香料などがありますが、当時は香料がプンプンして胸が悪くなったものです。
こと化粧に関しては、自然体が一番ですね。
投稿: 砂希 | 2016/02/26 22:07
砂希さん
化粧については、子供の頃に思い出を持つ人は少なからずいるのでしょうね。
小生の母は、我が家が農家ということもあり、家事もあって、忙しく、家では普段、化粧っ気は皆無でした。
それが、他所へ出かける際、薄化粧もするし、着るものも余所行きに。
一緒に車などに乗ると、母が女だったと改めて気付く……。
天花粉の匂いとか、漂ってきましたね。
現代は高校生どころか中学生や小学生でも、化粧をする。
昔は、高校を卒業したら、晴れて化粧が堂々とできるという楽しみがあった。変身する楽しみがあったわけです。
でも、今は、高校を出る前に化粧を覚えているから、社会に出て変身するという楽しみや意外性は薄れてしまった。
女性は、薄くでも化粧をしないといけないというプレッシャーがあるのかな。
男でも現代は、化粧とまではいかなくても、身綺麗にしないと女性に嫌われる。
何とも難しい時代です。
投稿: やいっち | 2016/02/27 22:15