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2016/02/13

母なるロシアはでっけえでなあ!

 小生は、日本人であるし、日本の作家の作品が好きだ。若いころからそれなりに読んできた。ファンといっていい作家も何人か挙げられる。

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→ 「ロシア - Google マップ

 一方、外国の作家というと、欧米の文学が中心で、中国や韓国(朝鮮)、東南アジアなどは、かなり乏しい。
 近年、中国などへ意識的に視野を広げようとしているのだが。

 中南米も、若いころから触手を伸ばしてきたのだが、なんといっても、ガブリエル・ガルシア=マルケス に圧倒された。
 読み浸った作家をアトランダムに列挙すると、欧米では、カフカ、スタンダール、ゾラ、サルトル、マン、リルケ、オースター、メルヴィル、プルースト、ウルフ、エリオット、ナボコフ……。日本だと、漱石、八雲、藤村、埴谷、太宰、島尾、春樹、芥川、鴎外、潤一郎、康成、賢治……。

 が、日本を除いて、一つの国で何人もの作家の文学に浸ったというと、ロシアになる。
 ガルシン、プーシキン、チェーホフ、ゴーゴリ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、トルストイ、ショーロホフ、レールモントフ、パステルナーク、(ロシアじゃなくポーランドだけど)シェンキェヴィチなどなど。ソルジェニーツィンなど、比較的新しい作家はフォローしていない。

 今も、チェーホフを読み返している。
 ロシア文学で感じるのは、思い込みや思い入れもあるのだろうが、なんといってお茫漠たるロシアの大地であり大陸のスケール感である。
 こればっかりは、日本の文学には求めようがない(求める必要もないのだろうが)。

 大陸的スケール感だと、ヨーロッパにも、アメリカ文学にも、あるいは中国やインド、アフリカにだって(おっと、オーストラリアを忘れちゃいけない。どんな作家がいるのか知らない)求められよう。
 恐らくは、それぞれの大陸ごとに特徴や傾向があるに違いない。
 そんな中で、ロシア文学における大陸的スケール感というのは、どういうものか。
 これは、ある意味、同語反復めいてくるのだが、ロシアの文豪らの作品をそれなりに読んできて、つまりロシア文学作品を読み込む中で自分の中に刻印されていった茫漠たる大陸のスケール感以外の何物でもないような気がする。

 ロシアにはシベリアがあり、その最果てにはサハリンがある。主に政治犯などの流刑囚が追放される地であるシベリアやサハリン。普通の村人にしたって、隣の村へ行くにしても、何日も雪の中を、あるいは変わらぬ風景の連なりの果てを覚悟しないといけない。

 スタインベックなどのアメリカ文学を読んだ際は、アメリカの原野には雪のイメージはあまりない。沙漠であり荒野であり、先住民たるインディアンとの闘争であり、まさに乾いた空気感が強い。
 ロシアだと、雪であり、暗鬱というか陰鬱なる果てしない空の連なりである。鬱蒼たる針葉樹林。沼地や川の連なり。大草原。あるいは無味乾燥たる白き山々。

Light

← チェーホフ【作】『ともしび・谷間 他七篇』(松下 裕【訳】 岩波文庫)

 そんな中で人と人とが、男女がたまさかに出会い、分かれていく。数百キロ以上に渡って、何もないような地にあっての人と人。雪に降り込められた家の中での、熱い魂の交合。肉の交わりだけじゃ足りない。魂の底から吐き出される夢と欲望と理想と虚しさと。
 あまりの広大さに人は圧倒されるか、感覚が鈍ってしまうか、いずれにしろ、現実感が希薄になってしまいそうだ。

 そうした茫漠たるスケール感を背景にしての人間ドラマの世界は、虚無のあまりの巨大さに、熱く激しくなるか、それとも敵わぬことを思い知らされて諦めの境に陥ってしまうか。
 まさに、中篇「谷間」中の登場人物である老人が語るように、母なるロシアはでっけえでなあ! である。

 

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