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2016/01/02

謹賀新年に寄せて

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

Knenk12

→ 「キンエノコロ」 by kei

 さて、新年早々だが、ふと、思い出に耽ってみる。
 もう、還暦も過ぎて、初心に帰るつもりで ! ?

(以下、拙稿「野原のことなど」(03/06/14)より)

 もう三十年以上も昔のことになった。我が家を囲む道が砂利道だったり、農道 だったりしていた。まして我が家の庭に車を駐車させるためのコンクリートの敷 地などあるはずもなかった。
 まだ変わらずにあるのは、田圃に面した一角だけだろうか。確かに昔はなかっ た農機具を入れる小屋があったり、敷地の一部が切り取られて人の家の建物が建 っていたりするが、畦道に囲まれた狭い田圃を居間の窓からも望むことができる。
 昔は、田圃が飛び地状態で方々にあったが、今では裏庭に面するこの猫の額も ないような僅かな田圃だけが残っている。それさえも、既に売却されていて我が 家は管理を名目に、細々と田植えの真似を続けているのである。
 そういえば、田圃と裏庭に挟まれるようにして小さな池があった。鯉か何かが 泳いでいた気がするが、記憶違いなのかもしれない。
 裏庭には小生が幼い頃、当時は何処の農家にもあったものだが、ニワトリ小屋 があって、庭先から取ってきたナスやキュウリ、玉葱などと一緒に小屋から卵も 失敬してきて食卓に並んだものだった。

 これは小生がつい先年、知ったことだが、我が家には昔、馬が飼われていたそ うな。表の地蔵堂に面した庭の角に納屋があり、その中には稲藁などが積まれて いるのだけは覚えている。小生は、そうした農作業用の小屋に過ぎないと思い込 んでいたのだが、実はそれは馬小屋だったというわけである。
 その馬に荷車を引かせて、富山(のほぼ真ん中辺り)から高岡にあるお袋の里 まで何度も往復したのだという。そんなことは、全くの初耳で、記憶をどう遡っ てみても、馬の鬣(たてがみ)の毛一本も脳裏に描けない。一度くらいは物心付 くか付かない前に見ているはずなのだが。

 地蔵堂(この地蔵堂も結構、珍しいものだという。今はコンクリート製に建て 替えられているが、当時は雨漏りのしそうな正に古びた小屋だった。何が珍しい かというと、地蔵さん(観音様)が30体以上も収められていることである。建て替えの前 は、その木造の地蔵堂は我が家の庭に向っていたが、新装なった時には、何故か 向きが変わり、我が家の対面にある地元で一番のお金持ちの家に面するようにな った。その時は、我が家の家運が傾いたような気がして、ちょっと悲しかったことを覚えている)からそれほど離れない一角には農道に面して肥溜めがあったの は、何故か鮮明に覚えている。

 家の北の角にあるトイレの肥溜めから汲み取って、その一坪ほどの肥溜めに移 し替える。そして、必要に応じて肥桶に汲み、畑などに撒くお袋の姿を、これは 辛うじて覚えている。
 やがて農道に面した肥溜めは潰され、今は松や椰子などが植えられ大きく育っ ている。といって、トイレが水洗に変わったわけではなく、定期的に汲み取り屋 さんが肥溜めのなにをトラックで汲み取りに来る。
 その時ばかりは、芳しい臭いが辺り一面に漂うのだ。トイレが水洗に変わった のは小生が学生時代のことだったか。その頃までには、土間も使われなくなり、 やがてさらに土間もなくなって今では父と母の寝室となっている。その土間で、 脱穀やら、大晦日の前には近所の知り合いが集まって石臼で餅つきをしたり、祝 い事があると、赤飯をたっぷりと炊いたり、若き日の父と母が汗水を垂らし、様 々な作業に精を出した場所だったのだ。

 表の庭には農道に面して蔵があった。その中には幾度となく入った記憶がある。 遠い昔、ほとんど初めて入った頃、めったに登らない蔵の二階を覗く機会があっ た。そこには長持やら御膳やら箪笥やら、恐らくは父の父の代からの残り物が収 められていたようだ。
 悲しいことに、富山の大空襲で我が家も燃えたので、古くからの伝わりものは 父はほとんど受け継ぐことができなかったのである。

 その蔵の壁は、当然、藁の茎の混じった土壁で、よく見ると、壁が何箇所も抉 れている。聞くと、それはアメリカ軍の飛行機による機銃掃射の弾痕の跡だとい う。父も掃射の雨のちょうど谷間になって、命からがら助かったと聞いた。戦火の中、なんとか田圃の外れに持ち出した什器類も、やはり戦火を免れることはで きなかったとか。
 その蔵も小生が学生時代だったか壁だけは綺麗に生まれ変わって、弾痕の跡も 見られるはずもない。

 さて、小生は別に我が家の思い出を語ろうというわけではなかった。語りたか ったのは、野原に生えるススキのことだった。小生がガキの頃は、まだ空き地が 方々にあり、我が家からちょっと歩けば防空壕もあり、戦火による残骸が散らば ったままの場所もあった。我が家から十分ほど離れた場所には大学の薬学部(薬 学専門部=略して薬専=ヤクセンと呼ばれていた)の跡地があった。ここは子ど もには謎の一角、秘密に満ちた不気味な領域でもあった。敷地は既に雑草が茫々 と生えているばかりだったが、実は未だヤクセンの建物が朽ちたままに残ってい たのである。

 小生は臆病者でその中にはとうとう、足を踏み入れることができなかった。学 校でも、その敷地へは勝手に入り込むんじゃないと指導されていた。小生はその 指導に素直に従っていたのである。
 ところが、或る日、学校の同じクラスのNという奴が、朽ち果てた建物に残っ ていた窓ガラスを全て石で割ってしまったと聞いた。なんて豪傑がいるんだと驚 いたものだ。
 別の機会に同じ学年の子どもが全員、体育館に集められ、縄跳びを連続して一 番長く誰が飛び続けられるかを競われたことがある。その時、一人一人と脱落し て、体育館の床に坐るのだが、最後にとうとう二人だけ残った形になった。その 話題の奴と、もう一人は誰だったか覚えていない。

 Nも、とうとう力尽き、座り込んだ。もう一人の奴もNの奴が座り込んだのを 横目で見て、縄跳びを止め、座り込んだ。すると、Nは、もう一度立ち上がって、 ビュンビュンと数回跳んで、それから座り直したのである。
 ちゃっかり、最後まで縄跳びをした奴として、目立ってしまったわけである。それも、計算づくで!

 なんて野郎だと、子ども心に、Nが英雄に見えたものだった。

 そのヤクセンの敷地は結構、広くて、ススキだったかの野原になっていた。他にも方々に空き地や野原があって、そこには決まったようにタンポポかススキが 咲き誇っているのだった。
 しかし、今、思い起こしてみると、ススキだと思っていたのは、実は、何か別 の種類の植物だったように思える。というのは、たまたまネットで稲穂などの画 像を検索していたら、イネ科の仲間の植物で、キンエノコロとかムラサキエノコ ログサ、アキノエノコログサなどと、小生が見ていたような植物がいろいろ見つ かったのである。

 下記のサイトによると、キンエノコロとは、「金色の穂のエノコログサの意味」 だとか:
きんえのころ №064
 
 何処か猫じゃらしに似た(キン)エノコロなどを小生は勝手にススキと呼んで いたのだと今になって気が付いた。
 ススキ(薄)というのは、下記のような植物を言う。みんな、知っているんだ ろうけど、植物に(も)疎い、小生は、似たような植物を一緒くたにしてススキ と呼んでいたのである:
ススキ(薄)

 ススキやキンエノコロというのは雑草なのだろうか。野原に咲く植物は、野草 とは呼ぶけれど雑草とは思われていないような気がする。タンポポは雑草なのか。
 野草と雑草はどう違うのだろう。野原に咲くから野草で、道路の周辺、畑や庭 に望まれないのに咲くのが雑草なのか。つまり生活圏の外の野原などに咲くと野 草で、人の生活圏を侵害する植物が雑草なのだろうか。だとしたら、たまにブロ ック塀の脇などにススキなどが生えていることがあるが、その場合は野草ではな く雑草の扱いになるのだろうか。

 まあ、そんなことは今はいい。我が家の周りも農道も含め、コンクリート舗装 され土の部分が田圃や僅かな庭以外にはほとんどなくなった。狭い畑があるから、 その敷地には雑草が生えて家の者を困らせる。
 ただ、田圃に農薬を撒く如く、庭や畑にも雑草の駆除剤が散布されたりする。 たくましいと勝手に思われている雑草は、蝶やトンボも昆虫もホタルもいない、 生命感の欠落した、死の気配が漂うような厳しい環境下に懸命に生き延びている のだ。

 いずれにしても、我が家の近所にススキの原も何も残ってはいない。近所のガキ連中で遊び回った土の世界が消えてしまった。健気な雑草がなんとか余命をつ ないでいるだけなのである。ちょっと寂しい気がするが、これも時代ということ なのだろうか。

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