ル・クレジオ『物質的恍惚』再び
久しぶりに、読み止しだったル・クレジオ著の『物質的恍惚』を改めて読み始めた。
冒頭の五十頁ほどを読んで、自分には読み切れないと、半ば放棄していた。
でも、久々に手に取ってパラパラ捲ると、読める。
→ 昨日まで雪のない、珍しい富山だったのに、未明から降り出した雪で、一晩で雪国に。やはり、富山は富山だ。
正直、前回、久しぶりに本書を読み始めた時、本書に、ではなく、自分に、自分の感性や読解力に失望していた。
もう、高校時代のような、たとえ誤読でもいい、強引でもいい、読み通してしまう力が、知的な体力が失われてしまったのか…なんて。
それは否めない事実なのだろう。でも、たとえそれが蓄積された澱であり脂肪なのだとしても、その堆積の果てにでないと感取できないものもあるのではないnか、などと自分を励ますように、叱咤するように言い聞かせ、続きを久々に読みだしたというわけだ。
← ル・クレジオ (著)『物質的恍惚』 (豊崎 光一 (翻訳) 岩波文庫) 「画像は、「Amazon.co.jp: 本」より)
相変わらず、ハイブローな文調や感性的思考にはついていけない。でも、何かしら刺激されるものは確かにある。
以下、高校時代に感じたことを、数年前に(三十年以上を経過しての、ほとんど架空話めいた妄想の域に近づいているのだが)無理やりにも思い返してみた、空想的エッセイの形に書き綴った文章(の一部)を転記してみる:
心とは物質だと思っている。物質とは究極の心なのだと思っている。物質がエネルギーの塊であるように、物質は心の凝縮された結晶なのだと思っているのである。
結局のところ、あるのは、この世界なのであり、それ以外の世界はないのだという、確信なのだ。あるのは、この腕、この顔、この髪、この足、この頭、この今、腹這う場所、この煮え切らない、燻って出口を見出せない情熱、理解されない、あるいは理解されすぎている自分の立場、そうした一切こそがこの世界なのであり、自分の世界なのだという自覚なのだ。
(中略)
穢れとは何か、自分が気に食わない何かが自分を歪めているという思 い込みに過ぎない。が、気に食う食わないなどに関係なく、自分は自分の望むよ うな人間ではありえないのだ。仮に一瞬でも、何か完璧な瞬間があったとしても、 それは束の間の夢か幻だ。決して持続しない。万が一、至上の時が数瞬でも続い たとしたら、心が何も望まなくなった時であり、肉体が新陳代謝を止めた時であ り、つまりはそれは死の時以外の何ものでもないのだ。
地を歩き回る蟻も地の中のミミズも、風にそよぐ木の幹も、風に舞う木の葉も、 舞い上がる埃も、降る雨も、軒を伝う雫も、水を跳ねて行き過ぎる車も、皹の入 ったブロック塀も、根腐れしている垣根も、明かりの洩れる窓辺も、急ぎ足の人 も、心を病む人も、その一切がこの世の風景であり、そしてこの世の風景以外に は、何もないのだ。宇宙に心を遊ばせても、その心はこの世に粘りついている。 この世の森羅万象に絡め取られている。
(拙稿「物質的恍惚」」より)
内面を失って、どれほどの時を経たことだろう。無意識という言葉を聞くと懐 かしいのは何故だろう。外には何もないことに気づかされたと同じく、内にも何 もないことにとっくの昔に気づかされてしまっている。 物質が、人間の心の傷より確かだったような時代は遠い昔の夢なのだ。物質さ えもが、情報の海に漂流する氷河の運命を辿る。精神の極北がなし崩しに溶け去 り始め、幾つもの巨大な氷塊が流れ出し、熱帯性高気圧と見紛うバーチャルな奥 行きも時間も過去もない、手応えなど論外の、時空を縦横無尽に飛び交う放射線 に射抜かれ、掻き砕かれる。 外も内もない、あるのは、丸裸どころか磁気共鳴画像診断装置に炙り出されて しまっている。 (拙稿「物質の復権は叶わないとしても」より)
← ル・クレジオ著『愛する大地 ~ テラ・アマータ(Terra Amata)』(豊崎 光一訳 新潮社)
月の光が、胸の奥底をも照らし出す。体一杯に光のシャワーを浴びる。青く透明な光の洪水が地上世界を満たす。決して溺れることはない。光は溢れ返ることなどないのだ、瞳の奥の湖以外では。月の光は、世界の万物の姿形を露わにしたなら、あとは深く静かに時が流れるだけである。光と時との不思議な饗宴。 こんな時、物質的恍惚という言葉を思い出す。この世にあるのは、物質だけであり、そしてそれだけで十分過ぎるほど、豊かなのだという感覚。この世に人がいる。動物もいる。植物も、人間の目には見えない微生物も。その全てが生まれ育ち戦い繁茂し形を変えていく。地上世界には生命が溢れている。それこそ溢れかえっているのだ。 (拙稿「真冬の月と物質的恍惚と」より)
自分が消え去った後には、きっと自分などには想像も付かない豊かな世界が生まれるのだろう。いや、もしかしたら既にこの世界があるということそのことの中に可能性の限りが胚胎している、ただ、自分の想像力では追いつけないだけのことなのだ。 そんな瞬間、虚構でもいいから世界の可能性のほんの一端でもいいから我が手で実現させてみたいと思ってしまう。虚構とは物質的恍惚世界に至る一つの道なのだろうと感じるから。音のない音楽、色のない絵画、紙面のない詩文、肉体のないダンス、形のない彫刻、酒のない酒宴、ドラッグに依らない夢、その全てが虚構の世界では可能のはずなのだ。 (拙稿「真冬の月と物質的恍惚と」より)
関連拙稿「テラ・アマータ」「ル・クレジオ…物質的恍惚!」「ル・クレジオ 空を飛ぶ」
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