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2015/11/01

ハロウィンの夜に想うこと

 昨日は仕事だった。ハロウィンパーティの日。暮れるにしたがって、いかにもそれらしい仮装をした若者が街中に目立ってくる。

Zombie_haiti_ill_artlibre_jnl

← ハイチのゾンビのイラスト (画像は、「ゾンビ - Wikipedia」より) 拙稿「ゾンビーと幽霊の間に」など参照のこと。

 そういえば、昨年もそうだったなーと思い出したが、今年は一層、賑わいが増している気がする。
 近年、根付きつつあるハロウィンだけど、やがてはクリスマスのように、お祭りの一種として、この時期には当たり前の光景として見られるようになるのか。

 富山の人間は割と、大人しいし、派手好きってわけじゃない。むしろ、シャイなほうだろう。
 それでも、東京(の渋谷)の情報がテレビで入ってくるし、昨年、火が付き始めていたので、今年こそはと思っていた若者も多いのだろう。
 この分だと、来年はもっともっと賑わいそうである。

 さて、ハロウィンの由来や、何故にお化けっぽい格好を装うのか、その由来などについては、あちこちのサイトで縷々語られているし、小生ごときが今更、語る必要もないだろう。
 そういえば、昨夜、ある客とお話をする機会に恵まれた。その方は年配の方で、ハロウィンには馴染みがないし、今更同調して楽しむより、早々に帰宅の途を急いだほうがいいと話されていたような方。
 この富山市でも、ハロウィンが流行るのは何故なのか、いろいろ雑談を交わした。
 今どきの若者は大人しい。つるむと騒ぐこともあるけど、一人で飲んで騒ぐなんて、まず見かけない。
 そもそも、今は大人だって、昔のように、飲んで酔いつぶれて、路上に寝込んでしまう……なんて光景は皆無に近くなった。

 全般的に大人しくなったのは、年齢には関係ないのかもしれない。
 とにかく、流行には敏感だということ、みんなで騒いで楽しむ文化が根付きつつあるのかもしれない。
 というか、特に富山など地方都市は、娯楽の対象も場所も少ない。カラオケかゲーセンか、飲み屋か。パチンコじゃ、みんなで騒げないし。都会のように、ダンスパーティをする場所もない。

 夏祭り、秋の祭りなどなどが終わると、クリスマスまでは、大騒ぎするネタ(切っ掛け)がなくなる。

 ある意味、ハロウィンは、秋祭りとクリスマスの間を埋める、ちょうどいい時期に、みんなで集まって、飲んで騒げる、いい口実ができたってことなのかもしれない。
 みんなで、といっても、友達同士ってこともあるけど、見知らぬ、各地から雲集してくるほぼ同年代の若者たちが街中の何処にも見受けられるってことだ。若者たちは、孤独も好きだが、だからこそ、群れるのも大好きなのだろう。

 そんな、ハロウィンには無縁の、埒外な男の取り留めのない随想などどうでもいい。
 若者たちの、思い思いの仮装の格好を遠目に、あるいは脇のほうからまぶしく垣間見るのがせいぜいのところ。

 ところで、どんな仮装をしようと、部外者の詮索など余計なお世話だろうが、それでも、敢えて言いたいことが少しある。
 まず一点は、怪物や醜い化け物の格好をするのは結構なようだが、世の中には、仮装しなくても、ああした<化け物>としか思えないような(自分でもそう感じている)顔や姿態の人間が少なからず居るのだということ。
 顔面が半分、崩れたような顔の人が、ハロウィンで化粧してまで、怪物の顔をして、わいわい騒ぎ浮かれるのを見て、どう思うだろう。当てつけのように思えるのではないか。自分らが幸せだってことを見せつけている(なぜなら、どんなに醜くても、あくまで化粧であって、あとでドーランをさっと洗い流せば、<まともな>顔や姿に戻れる、あくまで遊びで非日常を楽しんでいるだけなのだってことを見せつけている(誰に対してか!)、そんな風に感じる人も少なからずいるに違いないのだ。

 第二点は、ゾンビの仮装である。
 小生は、幾度となく、ゾンビについて本ブログでも書いたことがある(正確には、どこかのサイトで学んだことがあって、その説を紹介したのだが)。
 たとえば、「罌粟の花…ゾンビ」(2005/05/26)で、以下の引用文を某サイトから引用する形で紹介している(実際には、「ゾンビーと幽霊の間に」(04/05/10)といったタイトルで書いた雑文であるが)。「本来、ゾンビ(ゾンビー)というのは、西インド諸島などのブードゥー教に由来する存在のようだ」としたうえで:
 

ゾンビは非常に歪んだハイチ像をでっち上げるのに都合がよかったので利用されたにすぎない。世界初の黒人共和国というハイチの存在はアメリカにとって邪魔だった。奴隷解放は非常に困った事態であり、ハイチだけに封じ込めておきたかったのだ。そこでハイチのイメージダウンをはかった。

 つまり、映画『プレデター』で西インド諸島(ハイチ)の人びとの姿を髣髴とさせる怪物を描き、その昔は、ハリウッド映画で散々インディアンを野蛮人として描いたように、一時期、アメリカにとって都合の悪かったハイチの人々のイメージを貶めるために作り上げた、ご都合主義のハリウッドイデオロギーの妖怪…虚像なのだということだ。
 ……なんてことを書いても、若い人たちにはどこ吹く風の話なのだろう。

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コメント

ブロ友さんが渋谷まで出かけて、ハロウィンの様子を書いていました。
http://ameblo.jp/mekara-uroko/entry-12090615417.html
私だったら絶対行かない(笑)
貴重なレポートだと思いましたよ。
ゾンビの仮装はたしかに美しくありません。
さらに、政治的な圧力を知ってしまうと、抵抗を感じますね。
でも、看護婦やバニーガールの仮装がなぜ必要なのか(笑)
単なる仮装大会になりそうなのが日本式なんじゃないでしょうか。
私は美味しいものが食べられればそれで満足です。

投稿: 砂希 | 2015/11/03 15:04

砂希さん

ブログ、読みました。小生がもう少し若かったら、ガールハント……じゃない、ハロウィンの賑わいを感じに出かけたかも。

ゾンビの仮装は、醜いとかどうかじゃなく、ハイチへの政治的思惑があっての、アメリカによるパロディです。望ましくない。

看護婦やバニーガールの仮装は、大歓迎です。毎日でもOKです。
単なる仮装大会ってのは、日本らしくていいのかも。若者は騒いだり、みんなではしゃぐ口実が欲しいだけでしょうし。
特に仮装とか仮面をかぶるってのは、秘めている思いをさらけ出す、いいツールなのかもしれないし、とにかく楽しいのでしょう。
グルメと一緒で、とりあえずは楽しめばいいのでしょうね。

投稿: やいっち | 2015/11/03 21:21

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