本の寄付をお願いします!
過日、「本の寄付をお願いします!」という表題のチラシが投函されていた。
← 千松 信也著『けもの道の歩き方 猟師が見つめる日本の自然』(リトル・モア) 「現代社会の隙間を縫うように暮らす。獲って、さばいて、食べる。「生活者としての猟師」が今、求められている」とか。
一度ならず二度までも。
ハンディキャップのある方々の事業所(一般社団法人)からのもので、そういった方たちに「就労と生産活動の機会を提供する」のだとか。
具体的には、不要の本(単行本やマンガ、専門書)やCD,DVDなどを提供してもらい、スタッフ(ハンディキャップのある方々)が、持ち寄られた商品を「キレイにクリーニングし、Amazon などを通してまた新たな持ち主の型にお届けされ」、「販売した収益は、ハンディキャップをお持ちの方々のお給料となります」というもの。
家庭で不要になったものを提供することで、彼らへの仕事を創出することにつながる。
趣旨は分かるし、できる限り協力したいとも思う。
町内会などで、バザーへの出品を求められたり、どこかへの寄付を募られた際には、家の押し入れに溜まってた、タオルや毛布、衣類などをその都度、提供してきた。
中元かお歳暮でもらった品が山盛りにあった。中にはお盆やら箸(漆塗り)などもあって、独り身の小生には持て余すものばかり。
わざわざ人にあげるのも、わざとらしいが、そうした機会に提供を求められれば、出し惜しみすることもない。
さすが、何度も提供してきたので、そうした品も残り少ない。残ったものは、あまりに古くて、よく観察してみると、封を開けていないのに、シミが垣間見えるものもある。
いくらなんでも、そんなものは出せない(被災された際の応急品としてなら、可能かもしれないが)。
上掲の施設は、我が町からはやや離れた町にあるのだが、ネットでその施設を調べたら、次々と事業所が開かれ、たった今も、同じグループの事業所が開設中なのである。
だからこそ、我が家に二度までもチラシが入ったのだと、その事実を知って、納得した次第。
さて、問題は、本である。
これが悩む…というか、迷うところである。
本は、お金のないときは、図書館から借りだして読む。実際、学生時代や社会人になってからも、ほとんど図書館頼りの時期が何年も続いたことがあった。
この数年は、一応は正規の仕事に携わるようになり、本は買えるようになったが(そもそも、読める範囲内の本しか買わないし)、父母が亡くなるまでは、帰郷してからずっと図書館通いだったのである。
その意味で、ようやく本を買えるようになった今は、乏しい給料でやっと入手したもので、中元や歳暮の品とはわけが違う。
ただそうはいっても、自分ももう還暦を過ぎている。
買った本を書棚に並べて悦に入る(なんてことはないのだが)なんて楽しみも、若いころのように無邪気に続けるわけにいかない。
昔は、本はどれだけでも読めるような気がしたし、買って読んだ本は書棚に並べておきたいという欲求が強かった。書棚に(つまり身近に目の前に)あることで、ふとした際に引っ張り出して拾い読みすることもできるし、読み終えた本の背の題名を見るだけでも、そこには本の世界への扉、入り口があるわけで、自分の世界が広がるような気分(錯覚に過ぎないのだとしても)に浸れるのである。
父のように、切手、古銭、酒のラベルなどの蒐集や、篆刻に打ち込むといった趣味人ではない小生、集めるものと言えば、栞に美術展などのチラシ、あとは、集めているわけでは決してないが、読んだ本を並べることくらいのもの。
あくまで、読んだ本を並べるのでないと、気が済まない。古書を骨董品のように集める趣味はない。
しかも、乏しい軍資金で買い集めてきた本なのだ。いつまでも手元には置いておけないといっても、はいそうですかと提供するのも辛い。
まあ、頭の片隅に上掲の趣旨の施設ができているということは、置いておきたいと思うのである。結論を急ぐ必要もないし。
そういえば、過日、職場の同僚と、我が家の野菜作りについてお喋りしたことがある。
野菜は嫌いだけど、野菜作りをしているのは、親の残した数少ない遺産が畑。畑を畑として機能させつつ残していくのが自分の男としての意地なのだ。だから、自分ではほとんど食べないのに、野菜を毎年作ってきている……そんな話をしたら、知り合いにあげるのもいいけど、NPO法人などに提供したら喜ばれるよ、なんて話を彼がした。なるほど、とは思ったが、ネットでそういった法人を探したら、あるわあるわ、である。
飛び込みで野菜をもらってくださいってのも、変だけど、上掲の施設のチラシが何かのきっかけになるかも、なんて思っているのである。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 何十年ぶりにマフラーの登場(2024.12.11)
- 柴ストーブを脇目に数学エッセイを堪能する(2024.12.10)
- 俳優の中山美穂さん死亡(2024.12.09)
- しらすとちりめんじゃこの違い(2024.12.06)
- ハン・ガン著『菜食主義者』を読んだ(2024.12.05)
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 何十年ぶりにマフラーの登場(2024.12.11)
- 柴ストーブを脇目に数学エッセイを堪能する(2024.12.10)
- 俳優の中山美穂さん死亡(2024.12.09)
- しらすとちりめんじゃこの違い(2024.12.06)
- ハン・ガン著『菜食主義者』を読んだ(2024.12.05)
「社会一般」カテゴリの記事
- 何十年ぶりにマフラーの登場(2024.12.11)
- 俳優の中山美穂さん死亡(2024.12.09)
- しらすとちりめんじゃこの違い(2024.12.06)
- ハン・ガン著『菜食主義者』を読んだ(2024.12.05)
- 「日本航空123便墜落事故」(事件)の真相解明を!(2024.12.02)
コメント
>買った本を書棚に並べて悦に入る
これねぇ、ぶっちゃけ、あるのです、僕はw。
僕のことですから、難しい本なんてなくて、
ほとんどが、マンガと、いま時の小説で、
自慢できるようなものではないけれど、
それでも、中学生あたりから自分を作ってきた成分なのです。
民法のテキストなんか、
何ページあたりに、なにが書いてあるか、
ぜんぶ憶えてましたね~。
あとねぇ、みすず書房の「モードの体系」も、
「構造人類学」も、ずっと品切れのままでしょう?
新潮文庫の海外小説も、岩波文庫も、
もう終わってますよねぇ。
デートの待ち合わせで読んだふりをしていた流行りのニューアカ、「構造と力」、「逃走論」、「チベットのモーツァルト」、
1日のバイト代より高かったドゥルーズ=ガタリ、
本棚があるってことは、
自分があるってことなんだな~。
投稿: 青梗菜 | 2015/11/21 18:28
青梗菜さん
これといった趣味のない人間。オートバイに30年、乗ってきたけど、今はリタイアしているし、何も目に見えるものは残っていない。
記憶と体験は体に残っているんだろうけど。
となると、本だけが残っている……はずが、東京を離れる際、千五百冊以上の本をなくなく手放しました。
約十年以上の空白が生じてしまった。
帰郷していろんな本を読んでいて、参考文献に、そういえば、この本も所蔵していたのにっていう機会の多いこと。
特に苦労して読んだ本とか、カネもないのに敢えて(見栄もあって)揃えた夏目漱石全集(岩波)などは、今こそ、書棚にあったらなーと思います。
展覧会に行くたびに関連の図録を数冊、買い漁って集めた美術書は、自分の自慢の蔵書だったのに、全て手放したのは惜しいという言葉では済まない。
あるいは、谷川健一の「白鳥伝説」とか、三木成夫著の「胎児の世界―人類の生命記憶」(中公新書) に感激し、二度は読み、彼の本を買い揃えたのに、全て手元から失ってしまった。
自分の読書歴、人生歴の一部が消え去ってしまったわけです。
これは、本を読むのが好きなものだけが分かる悲しみですね。
ただ、屋根裏部屋には、小中から高校にかけての本が、古い書棚に埃をかぶって残っているのが、少しは慰めになるかな。
何をどうするわけじゃないのだけど。
投稿: やいっち | 2015/11/21 21:31
千五百、あ~!
2、3時間か、半年、1年か、
語りあった友達みたいなところがあるのです。
読み捨ての軽い小説でもね。
なにを話したのか、忘れてしまったけど、
本があれば、そんなやつもいたっけかな、って。
置き場所がないから、少しずつ入れ替わるのは、
死蔵していない証拠として、
しかし、一挙に千五百冊。
>何をどうするわけじゃないのだけど。
うん、それもすごく分かるけど、
そうだけど、ほんとに、そうだけど。
投稿: 青梗菜 | 2015/11/21 23:16
青梗菜さん
たぶん、青梗菜さんとは違う事情があります。
というのも、上記の1500冊ってのは、上京してから帰郷するまでの約30年の間の大半の本。
30年で1500冊は少ないですよね。
実は、上京してからは、貧乏していた時期が多くて、数年間、本を買えなくて図書館を利用していた時期ってのが幾度もありました。
最近では、1998年ころから2010年ころまでは、ほとんど図書館を使わせてもらっていました。
帰郷したのが2008年の春で、定職には就けず、アルバイト(代行や新聞配達)なので、本は図書館。
2010年の夏、父母が亡くなり、翌年の早春、現職に。
なので、本を買うことを再開できたのは、2011年の半ばころからだったか。
そんなに数多く読むわけじゃないし、買った本は読む(というか、読める範囲内の本しか買わない、本は可能な限り買って読みたいし)ので、本を買える時期自体が自分には貴重なのです。
なので、買った本は、買える状態にある自分ということで、一層、貴重。
思い入れも一入(ひとしお)ってわけです。
買った本は書棚に並べ、悦に入ったりしますが、背の題名を読んだり、眺めたりするだけでも、読んだ当時の印象や本の世界への思い入れが増します。
その点、図書館から借りだした本は、お金を出して買っていないので、本を選ぶ基準も緩めになるし(どうしても、買って読むんじゃなくて、好奇心やその都度の流行や話題だけで選んでしまう)、面白い本を発見することもあるけど、印象にまるで残らないことも結構ある。
このブログで、たまに十年ほども遡ったりすると、そのころは図書館利用だったので、ええー、こんな本まで読んでいたのか、まるで覚えていないなーと、自分で驚くことがしばしばあります。
小生は、買った本はもちろん、借りた本も、全て記録(書名・著者名・出版社・借りた図書館や人の名前)してあります。
ごくたまに、そのリスト(表)を眺めると、感慨ひとしおだったりする。
で、買った本の中で、東京在住時代に買った本の大半が手元を離れてしまったんだなーと、悲しい感懐に…
投稿: やいっち | 2015/11/23 21:05