小さき魂の声
もう、一昔前となってしまったが、「葬送のこと、祈りのこと」(04/01/05 記)と題した小文を書いたことがある。
← 柳田国男著『小さき者の声 柳田国男傑作選』 (角川ソフィア文庫) 本日未明読了。(画像は、「紀伊國屋書店ウェブストア」より)
いきなりこんな話題が飛び出すというのも、仕事柄、葬儀の場に立ち会うことが多いからである。
業務上で知ったことを縷々語ることは控えておく。
上掲のエッセイを書いたことは覚えている。ただ、十年以上も以前、どうしてこんな陰気な雑文を綴ったのか、その事情なり背景なりについては、記憶がない。
今更ながらだが、葬儀の場で感じることの一端を、一寸の虫というわけではないが、小さき魂の声、ということで、ここに再掲してみる:
(以下は、「葬送のこと、祈りのこと」(04/01/05 記)より抜粋)
(前略)このように見てくると、少なくとも日本に関しては、埋葬(葬送)の場所は、 空や海、土といろいろあっても、基本的には火葬が葬送の根本にあることには変 わりがないようである。
つまり、まず、ご遺体を荼毘に付す、イコール、火葬にする。その上で、本人 の希望で遺骨が海か空か土に散骨されるわけである。
ということは、遺骨にこそ、亡くなられた方の魂なり思い出なり思い入れなり があるということなのだろう。が、幾度も参照しているサイトを改めて参照する と、「骨には魂は付着してい」ないのであり、「よく考えてみれば、水や火・風・ 空の要素は完全にお返しして何とも思わないのに、骨だけにこだわるのはおかし なこと」なのである:
「魂と肉体 散骨・粉骨 やすらか庵」ただ、そうはいっても、肉も血も髪も(遺髪を残せば別儀だが)爪も皮も内臓 も全て灰燼に帰してしまい、残るのは遺骨だけという現実からしたら、そしてお 墓も小さくなる一方なのだとしたら、僅かな遺骨を大事にするしかないというこ となのだろう。
遺族がいて、遺骨を多少なりとも大事にしてくれるなら、また、そうされるこ とを望むなら、その慣習の流れに乗るのが心の平安に繋がることでもあるのだろ う。が、宇宙から見たら、海だろうが空だろうが土だろうが、大した違いなどない ということも事実に思える。それだったら、どうせ遺骸は火葬されるのだし、遺 骨が空葬されようがどうしようが関係ないということでもあるのかもしれない。
それとも、遺骨などではなく、DNAを遺しておこうか。一体、この世に何が残るのだろうか。そもそも何か残したいのだろうか。この 掛け替えのない自分。確かに自分というのは一人しかいないし、段々自分のこと を気遣うのは自分しかこの世にないのだと、しみじみと感じてきている。
だから、その意味で世間に迷惑を掛けないよう自分のことは自分で始末をつけ たいとは思うけれど、さて、それも生きている間のことで、その後のことは、ど う思えばいいのだろう。ここで思うのは、一頃流行ったカオス理論でのバタフライ効果って奴である。 まあ、正確さなど一切、度外視して説明すると、逐一の些細な差異が、継続し て加算・加重されると、後に至っては非常に大きな違いとなる、という理屈であ る。
で、敢えて不遜にも自分のことを思うなら、ここ、この世の片隅に一個の平凡 なる人間がいる、それは極小の小宇宙に過ぎない。そして、その取るに足りない 人間のささやかな思いや願いや祈りや期待など、それこそ蝋燭の焔であって、気 紛れな風の一吹きで掻き消されるような、存在自体があやうい、あれどもなきが 如きものでもある。
けれど、そのちっぽけな存在者の小さな窓からは、その気になれば宇宙だって 見えるし感じることもできる。窓の隙間からは、隙間風だって吹き込む。その風 は、宇宙の隅々に吹き渡るものであり、無辺大の宇宙のどんな片隅をも吹き渡り 撫で来り、その臭いを嗅ぎ、そして運ぶ。
ここにいる<わたし>が思うことは、つまり、決して消えることなどありえな いのだ。一滴の血の雫が海に溶ければ、限りなく拡散し、海の青に染まり行くの だとしても、だからといって血の一滴が消え去ったわけでもなければ、まして無 くなったわけでは決してないのだ。
形を変え、色を変え、結びつく相手を変えて、永遠に生きる。一旦、この世に 生じたものは決して消えない。消すことは叶わないのだ。一旦、為した善事も悪 事も無かったことに出来ないように。だから、自分というちっぽけな人間が、世の片隅に生きて、平平凡凡と生きよ うと、その心と体の中に何事かを祈念する思いがあるなら、既に永遠の命が約束 されたも同然なのだ。なぜなら、一旦、この世に生じたものは、なかったことに することなど人間には不可能なのだから。
だからこそ、祈り、というのは、奇跡の営みなのであろう。祈りを知る人こそ、 人間の究極の業(ごう)を知る人なのだろう。人間とは、つまるところ、祈りな のだと小生は思っている。この世のどこかに何かが萌す。それは命の賛歌なのか、生への盲目的な意志な のか、その正体など誰にも分からない。
ただ、一旦、萌した命の芽吹きは踏みつけにされ命を断ち切られたとしても、 この世からは消えることは無い。消えたように見えても、また、どこかに生まれ る。踏み躙られた苦悩と恨みと望みとが、生まれいずることのなかった命への執 念を以って、再びどこかに萌す。
そしていつかはどこかで大輪の花を咲かす。萌し、やがては芽吹き、花が咲く というのは、夢物語ではなく、宇宙の摂理なのだと小生は思っているのだ。
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