名月や地球を眺めて何想う
自分は、勝手に月影のことを教えて呉れようとしたと思うことにして、せっかくなので、月を眺めあげたのである。
物陰に身を潜めるようにして、眺めた。駅前でボーと空を眺めるなんて、変人に思われかねない。
そんな余計な懸念など、関係ない。それより月影。
月を眺めるたびに、37万か38万キロの彼方に月が浮かんでいるってことが、わけもなくすごいと感じる。
あの世界に、半世紀も昔、アメリカが人を向かわせ、実際に立たせたなんて、いまだに信じられない。
当時のソ連に、アメリカのパワーを見せつけ、同時にアメリカの力を世界に誇示したかったのだろう。
月が宇宙空間に浮かんでいる。
浮かんでいるという評言は厳密には間違いだろうけど、とにかく、重力の法則に従って、月も地球も、太陽も浮かんでいるのだ。
重力という宇宙の海に漂う運命共同体。
我々人類は地球表面に立って、月を眺めあげている。
月影を頭上にして、人類は、あるいは狼などの動物も、遠い昔から、何かしらを想ってきた。
現代において事情が違うのは、あの月世界に人類が一度は立ったという事実。月に人類の足跡が残っている、という厳然たる事実があるという認識。
人が月世界に立ったという歴史の果てに我々がいるという現実。
月に兎など住んではいないし、まして、月で兎が杵で餅を搗いている……なんてロマンは抱けなくなった。かぐや姫も、仮に昔話が形成された昔は月世界にいたのだとしても、今はもう、とっくに居場所を他に探し求めて去っていったに違いない。
昔話も童話もファンタジーも空想も許されなくなった今という淋しい時代。
月影という表現だって、もう、使い難くなるのかもしれない。人が月世界を隅々まで、それこそ、物陰など見出せないほどに、探索しつくしてしまう。それは時間の問題だ。月面基地が作られ、資源を貪られ、見るも無残な姿に変貌してしまう。
人類が月面に着陸した、そのほんのひと時、名月と呼ばれた月から、月以上に青く輝く地球を眺めて、人は何かしらを想ったに違いないと空想したものだったが、それもつかの間の夢。
月は利用される存在となりさがり、月を眺めて感じる、畏敬の念や不可思議の感が幻滅へと変わってしまう、その時も近い。
そうはいっても、宇宙空間の謎は残っている。暗黒物質が漂っているに違いない。絶対零度ギリギリの世界の、絶対零度の不思議の時空が月も地球も太陽をも囲繞しているのだ。
だとしたら、まだ今のところは、表題に掲げた夢想をほんのしばし、浮かべていられるのかもしれない:
名月や地球を眺めて何想う
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コメント
月は、僕たちの手が届かない場所にあることを示しながら、
僕たちを照らしていました。
月は人に自らを求めさせ、
そして、人は月を手に入れることができなかった。
1969年、アポロ11号が、静かの海に着船するまでは。
やがて、僕たちは、竹取物語にもジュール・ベルヌにも、
心を動かされることはなくなりました。
知ることができない、というときは、
知ることができないこと、そんなことがあるということの、
了解を含む矛盾があります。
人には、理解することができないものがあり、
いつだって、それに対する欠如があります。
無限への憧れがあり、絶対者への依存があり、
天国や彼岸、ここではないどこかがあります。
そんなの、確かめるすべもないくせに。
月は、なぜか思考を散漫にさせます。
かゆいところに手が届かないw。
凡人のくせに、考えるなよ、
そう言ってますよ。
月は、たぶん、きっと。
投稿: 青梗菜 | 2015/09/29 10:46
青梗菜さん
月をめぐってに限らず、科学はいろんな自然や宇宙、現象の神秘や謎を解き明かします。
科学者らは、一つのメカニズムの解き明かしが成ったとたん、一層の謎に直面すると、ほぼ例外なく、吐露しますね。
科学の最前線に立つ人ならではの正直な感覚なのでしょう。
たぶん、自然の探求に際限などないのでしょう(門外漢の小生ですが、科学の探求に終わりはないと(根拠のない)確信を持っています)。
ただ、門外漢は、一定の解明が示されると、もう、極めつくされたかのような錯覚に容易に呑まれてしまう。
月影を眺めあげての、不思議な感覚は、きっと、謎はまだまだそこにある。あなたが気づかないだけだと告げているように思えてなりません。
だから、自然の謎や不可思議の際限なさ、無辺大の宇宙を前にするとき、天才科学者も哲学者も凡人も同等の立場にあると思っています。
それほどに、自然の謎は深い、という現実を前にするとき、人間の能力の差など、無限に縮小するのです。
そう、人はだれでも、無限の海の浜辺で戯れる子供なのです。
だから、お前など、沈黙しろよ!ってのは、まともすぎる忠告でしょうが、こらえ性のない人間は、いえ、小生は黙っちゃいられないのです。
投稿: やいっち | 2015/09/29 22:03