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2015/05/29

孤立した木が雪と風に

 野中に立ち尽くす一本の木。風も光も独り占め。
 荒野に屹立している? とんでもない! 奴は独りぼっちなのだ。人に和すこともできず、人に抗うこともできない。ただ、孤立している。

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→ 絵画錬金術師ドクターカオス作「些細な事で弱虫」 (画像は、「絵画錬金術師ドクターカオス(@takayuki419)さん Twitter」より) 

 何だってこんなところに迷い込んだのか、自分では到底、分からない。強がりたいけど、誰かに縋りたい気持ちは隠しようがない。
 ああ、だったら、そんな愚かで弱気な自分をこそ、曝け出して見せるしかないではないか。

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← ミシェル・レリス著『幻のアフリカ』(岡谷 公二/田中 淳一/高橋 達明【訳】 平凡社ライブラリー) 「ダカール=ジブチ、アフリカ横断調査団(一九三二‐三三年)―フランスに「職業的で専門化した民族学」が生まれた画期。本書は書記兼文書係としてレリスが綴ったその公的記録」。「だが、客観的な日誌であるはずの内容には、省察(植民知主義への呪詛)、夢の断片や赤裸な告白(自慰も含めた、しばしば性的な)、創作家、等々が挿入され、科学的・学術的な民族誌への読者の期待はあっさり裏切られる」。アフリカへ渡ったランボーの足跡を追いたいという思いは果たせなかったが、言葉への拘りへの徹底ぶりは凄い。公的なはずの日誌において、敢えて自己を曝け出す営為は、アフリカの旅は、人間嫌いの彼の受肉と自己解放の試みだったのかもしれない。アフリカの原始の密林と供犠と呪いとへの探求に他者(特に女)の肉への希求を感じさせる。だが、その試みは果たせない。女への欲望の成就や交合は遠くアフリカにあっても、叶わない。何処まで行っても逃避に過ぎないのだ。原始のアフリカの闇は既に、植民地化した欧米人の手により、多くは破壊され、あるいは用心深く秘匿されていたのだ。現地の女は娼婦として提供されているのだが、手は出さない。自己の解放は旅では成らないのだ。それでも、レリスの迷走ぶりに、遠く南米の密林を生地とするマルケスやリョサを想ったりもさせてくれた。本日、読了。 (情報と画像は、「紀伊國屋書店ウェブストア」より)

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→ 孤立した木が雪と風に立ち向かっている。 冒頭の絵を観て、ふと、この映像を連想してしまった。(画像は、「一本の木を友にして帰郷せし」(2008/01/15)より) 

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