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2015/04/12

ペリーと森鴎外と脚気

 寒い日々が続いている。灯油はもうあと一日分があるかどうか。そろそろ季節通りの暖かさがやってくることを期待して、灯油を買い足すのを控えている。サクラも昨日、見頃の時期が過ぎたようである。
 四月も半ばなのだ。暖かくなってほしいとひたすら願う日々である。

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← 『ペリー提督日本遠征記〈下〉』(M.C./ホークス,F.L.【編纂】 /宮崎 壽子【監訳】 角川ソフィア文庫) (画像は、「紀伊國屋書店ウェブストア」より)

 さて、『ペリー提督日本遠征記』を読んでいる。上下合わせて1200頁ほどの大部な本。だけど、実に面白い。いかにもアメリカ人らしい、自らを正義の担い手と思い、日本が開国することは、アメリカなど海外のためでもあり、日本のためであると、心底、ナイーブなほどに信じ込んでいる(日本人には鬱陶しい?)様子が分かって、興味津々である。

 彼らはイギリスやフランス、ロシアなどと違って、最初から日本を占領するつもりはなかったことが、彼らの文書の中の記述でよく分かる。
 今もアメリカは自国の利害を最優先に、恐らくは本気で(彼らなりの独善性で)日米関係のために軍事同盟の深化を第一に考えているのだろう。この思い上がりめいた発想はどうしたものだろう、なんて。

 さて、『ペリー提督日本遠征記〈下〉』を読んでいて、興味深い記述に出合った。
 それは、函館と壊血病についてのこと。
「函館と下田には悪性の風土病がないと分かれば、中国に駐屯するわが国の軍艦は、中国で赤痢と熱病が蔓延する夏の終りから秋にかけて、ここの港(函館)に集結するのが得策と推論してもいいだろう」とした上で、以下の記述に続く:
 

しかし、この意見は、とくに気候に着目したものである。もし、ゴローニンが言うように、蝦夷島の住民は壊血病にかかりやすいというのが本当ならば、船舶はこの病気に対してそなえておく必要がある。冬が長く、耕作のための土地も少なく、とりわけ、沿岸の住民はほとんど商業と漁業に従事しており、耕作は例外的な生業であることから、春にかけて野菜が欠乏――しばしば壊血病の原因となる――するらしいので、ゴローニンの記述はまったく正しいようである。したがって、長期の航海をする船は、函館では野菜の欠乏という事態にそなえておくべきである。(下巻 p.422)

 この記述に着目してしまったのは、小生が以前、森鴎外と脚気を巡る小文を書いたことがあるからである(末尾に拙稿を転記しておく)。

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← 吉村昭著『新装版 白い航跡(上)』(講談社文庫) 「海軍軍医総監に登りつめた高木兼寛は、海軍・陸軍軍人の病死原因として最大問題であった脚気予防に取り組む。兼寛の唱える「食物原因説」は、陸軍軍医部の中心である森林太郎(鴎外)の「細菌原因説」と真っ向から対決した」。 (情報や画像は、「Yahoo!ブックストア」より)

 さて、「脚気と悪者森鴎外」によると、「西欧では全く見ることがなかった病気が日本にはありました。脚気という病気です。この病気は、手足のしびれ、動機、足のむくみ、食欲不振という症状で、進行すると歩行困難になり最後には心不全で死亡するというものです。西欧にはなくアジアにだけ存在するので風土病であると考えられてい」た。
「この脚気が日本の軍隊で猛威をふるい、深刻な事態となってい」た。この原因と対策について、「海軍医務局長の高木兼寛(後の海軍軍医総監)は、西欧と日本の軍隊の違いは食事にあるとして、白米ではなくパンを中心とした食事(後に同じ麦ということで麦飯に変えている。当時の日本人の中には「パンを食うぐらいなら死んだ方がまし」というくらい洋食が苦手だったらしい)をとれば、脚気にかからないことを証明し、脚気の解決法を明らかにしました。その結果、海軍では脚気患者はほとんど見られなくな」った。
 一方、「陸軍の中央では麦飯の導入には徹底して反対していました。ところが、実際に現地で兵を管理している地方の軍医たちにとって相変わらず脚気は脅威でした。そこで、独自に麦飯を取り入れ、大いに効果を上げて脚気の患者を減らしてい」たにもかかわらず、中央の役人だった鴎外は、「頑固に麦飯の効果を否定し続け、現場からの要求に応じず、麦を供給しませんでした。その結果、海軍では脚気による死亡患者はほとんどなかったのに対して、陸軍では、日清戦争では 3944人(戦死者は293人)、日露戦争では27800人(戦死者は47000人(この中にも多くの脚気患者がいた))という非常に多くの兵士の命を脚気によって奪う結果となったの」だった。
 
 上掲の引用文を注目したのは、アメリカでは1850年にはとっくに壊血病には野菜が不可欠というのは常識になっていたにもかかわらず、鴎外が軍医だった時代の日本では、少なくとも陸軍の中央においては、鴎外も含め、依然として脚気の原因は細菌であるという信念を頑なに守り続けていたという悲劇(悲惨)を感じたからである。

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← 坂内 正 (著)『鴎外最大の悲劇』 (新潮選書)  (画像は、「Amazon.co.jp 通販」より)

『鴎外最大の悲劇』続報:高木兼寛のこと

 以下は2001年9月初頭に書いた坂内正著の『鴎外最大の悲劇』(新潮選書刊)を元に しての一文である:

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 鴎外がほとんど病的なまでに固執した脚気の細菌説[少なくとも、食物成分に含ま れる何らかの成分(=やがてビタミンだと判明する)不足説の否定]、つまりは白米 至上主義への固執が、明治の日清や日露戦争などで陸軍の兵士に罹患せしめた脚気が 数十万人もの犠牲者を生じる結果に至った。
 これは鴎外の自説への異常なこだわりと出世競争への執念の結果であるし、陸軍当 局トップの面子へのこだわりの結果でもあった。
 実際、海軍は早くから白米主義から脱却して、脚気の病による死亡などをゼロに押 さえ込むことに成功していたのだ。
 だからこそ陸軍幹部は意地もあって脚気は細菌か何か、風土病などの影響だという 説を捨てるわけにいかなかったのかもしれない。
 実際、日露戦争で戦闘での犠牲者を遥かに超す犠牲者を脚気が、つまり鴎外らが齎 したのである。
 後に明治天皇の崩御に際して乃木希典が殉死するのだが、それももしかしたら、日 露戦争などでの無為な犠牲者があまりに多かったから、しかも内心は、その犠牲者の 大半が脚気によることを知っていて、それで自死に及んだ可能性も否定はできない。
 希典の死去の頃には、最早脚気の原因が乃木の親しくしていた森鴎外(林太郎)の 主張する原因ではなく、陸軍の給する食物の偏重(白米主義)にあったことは、ほぼ 明白になっていたのである。
 そしてその陸軍の軍医のトップにあった鴎外が、やがて文学へと傾倒していくのも、 彼自身は認めなかったとしても、自らの我執が陸軍幹部であっては責任を問われる可 能性があったが故に、文学へと逃避したのかもしれないのである。
 尤も、坂内氏は、そんな単純な主張はしていないのだが…。
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 さて、その後、直接は森鴎外に関する書ではないのだが、脚気を巡る逸話というこ とで、吉村昭氏が『白い航跡 上・下』(講談社文庫)を出されていたことを知った ので、若干、補足しておきたい。
 本書は、坂内正著の『鴎外最大の悲劇』の中でも重要な人物として触れられている 高木兼寛(かねひろ。「けんかん」とも呼ぶ。1849-1920)の伝記である。
 上で引用した一文の中で、「海軍は早くから白米主義から脱却して、脚気の病によ る死亡などをゼロに押さえ込むことに成功していたのだ」と記してあるが、その立役 者が、高木兼寛その人なのだ。
 彼は東京慈恵会医科大学(その前身)を設立した方であり、海軍軍医総監でもあっ た。まさに当時、脚気対策を陣頭指揮されたのである。その結果、陸軍が悲惨極まる 結果になったことに比べるまでもない、輝かしい功績を為したのだった。研究当時は、 ドイツ医学に固執し、脚気細菌説に拘り、ことごとく反対する鴎外らにも屈せず、生 涯をかけて脚気の原因を追求したのだった。
 高木兼寛の研究に刺激されたオランダの生理学者、栄養学者、細菌学者のエイクマ ン(1858-1930)が、やがてビタミンBを発見し、ノーベル生理学医学賞を受賞した。
 高木の功績を顕彰して、英国の南極地名委員会UK-APCは、1959年に南極のあ る岬を高木岬と命名した。
 ちなみに国外で日本人の名が付けられたのは、間宮海峡と高木岬だけである。
 大工の息子として生まれた高木の生きざまは、鴎外とは違った意味で、われわれに 示唆を与えてくれるやに違いない。
 高木兼寛については以下のサイトを参照:「ビタミンの父 高木兼寛」
 http://www.town.takaoka.miyazaki.jp/takaki/takaki.htm

                              (02/01/25

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