ノミシラミオレの嫉妬する
この部屋を出たかった。出ないことには息が詰まって死んでしまう。
今度こそ、この部屋を出る! そう決断したことは何度あることか。
けれど、いざとなると、決心が鈍ってしまう。
→ お絵かきチャンピオン 作「天井ピアノ弾き」
何かが引き止めるのだ。
殺っちまったことが露見するから?
それもある。部屋の模様替えなんかされたら大変だ。いや、壁紙でも貼っちゃえば、壁の汚れなど誤魔化すこともできよう。何年も経てば、建て替えだ。重機か何かで一気に倒され潰され跡形もなく消え去ってしまう。その頃には、何もかもが骨か皮だ。
この部屋から立ち去り難いのは、あまりに長くこの部屋に暮らし過ぎて、オレの魂がそこたら中に浸み込んでいるからだ。
フローリングの床。だが、この床の下が畳だなんて、誰も気づかないだろう。まして畳の滲みなんて。
壁だって、生のり付きの壁紙を丁寧に貼り付けて、見違えるほどだ。
問題は天井だ。天井にもフローリング風の床に合わせて、古びた木目柄のクロスを張り巡らした。けれど、何度、張っても、数か月経つと、天井裏からどす黒い粘液が滲み出して、クロスを汚してしまう。
しかも、この頃は、その模様が妙に辛気臭いのだ。踏み潰されたシラミ。それとも、巨大なノミのような形。
のような…じゃない、ホントに、そう、ノミやシラミなのだ。
← お絵かきチャンピオン 作「お手手繋いで」
ああ、忘れもしないあの日のこと。大学に入ったばかりの頃の事。キャンパスには遠いが、その分、安いし広い部屋を借りることができた。学校なんて、行く気はさらさらなかったオレは、不動産屋にとにかく綺麗な部屋、できれば新築のアパートを探してもらった。
新刊本を買って、手垢に塗れさせ、読み終えると書棚に並べ、やがて日焼けしていくのを眺める。本の焼け具合の変化を見守るのが好きなのだ。むしろ、そっちを愉しむために綺麗な本を入手するのだ。受験勉強と称して、屋根裏部屋に籠っては、日当たりのいい場所にある書棚の本たちを眺めては悦に入っていた。
そう、部屋も、埃と汗と手垢と日光と時間とに馴染ませるのだ。そうしてたっぷり歳月の重みって奴を味わった壁や天井や柱や畳に見入っていた。
ところが夏のある日、外出から帰って、体に張り付く汗臭いシャツを着替えようと、体を捩っていたら、裸足に何か、踏みつけたような感覚があった。何かブヨブヨするモノを踏み付けた感じ。ブチュッと何か粘り付くような流動体の噴出する、何とも云いようもない違和感。
怖いもの見たさで足をどけてみたら、ノミだった。見事に踏み潰され、衣から中身がドロッと流出していた。畳にも足裏にもべったりと張り付いていて、ノミの身は二つに引き千切られてしまっていた。
片足でケンケンして、流しに足を乗せ、タワシで足裏を懸命に洗った。そこにあるなら漂白剤を垂らしたかもしれない。それから慌てて床材を買い込んできて、床に張り付けた。畳の汚れをどれほど濡らした新聞紙などで拭い去ろうとしても、その滲みが一層、畳に広がっていくようで、悍ましかった。板材で覆い隠すしかなかった。
日ごろ、手垢に塗れた、薄汚れた風合いが好きだと嘯きながら、その実、本当の生臭い生き物のえげつなさには嫌悪感を覚えてしまう。その矛盾に一瞬、考えが及びそうだったが、オレらしくないと、あっさり止めた。
その事件から数か月が経った。少しは忘れ始めていた。そこにまた事件が起きた。
何と、今度はシラミの野郎がオレを襲ったのだ。思えば、アパート暮らしを始めてから、一度も風呂に入ったことがないのだ。体中が痒くてならないのだが、アパートに風呂があるわけもないし、そもそも風呂なんてものが大嫌いなのだ。
→ ノミ(蚤) (画像は、「ノミ - Wikipedia」より)
だってそうだろう。人類が誕生してこの方、風呂なんてなしで生きてきたはずじゃないか。風呂なんて代物は、人間は未だ馴れていないはずだ。親元に居る間は、母に言われて仕方なく風呂に入ったけど、それも言い訳程度で、大概がシャワーで誤魔化していた。
でも、今は一人暮らしだ。オレがどんな生活を送ろうと、誰も文句を言う奴はいない!
天罰だろうか、そんなオレにノミという友達が出来てしまうのも、無理はないのかもしれない。これこそ、ノミ友達だ。
そして、今度はシラミというわけだ。
何処から現れたのか分からないが、見紛うはずもないシラミの奴がオレに纏わり付くのだった。追い払った…と云いたいが、下手に追うと、潰してしまいそうで、そうっと柔らかく追うのが精々だった。シラミの二の舞は御免だ。
数分、シラミと格闘しただろうか。ようやく奴の姿は見えなくなった。何処かへ消えた? まさか、オレのトレーナーの裏とか? ズボンの裾に隠れた? 下手すると、オレの頭髪に紛れ込んだのか?
そのまさかだった。髪の毛が何だかこそばゆく感じられたのだ。間違いない。ノミの野郎め、頭髪がジャングルだとでも勘違いしやがったのだ。何とか、追い出したかった。頭をゆさゆさ振っても甲斐がなかった。
仕方なく、指櫛で追い払おうとした。そのはずなのに、シラミの奴、オレの指に纏わり付きやがった。
指先の腹に齧りついたらしいのだ。ちくっと痛みを覚えたのだ。思わずオレは奴を壁に叩きつけた。小さな物体が壁に、天井に飛んで行った。
小さな影が二つ? 見ると、壁に一匹、天井にも一匹、貼り付いていた。原形だけは留めていた。
壁の経年変化は嫌いじゃないが、埃塗れも放置するオレだが、潰れたシラミの汚れは我慢ならない。人類とははるかに遠い存在。奴らは死滅させられてしかるべきなのだ。
ああ、悍ましい。死骸の醜さ。オレの部屋の壁が、天井が汚れてしまった。
というわけで、生のり付きの壁紙を壁や天井に張り巡らしたのだった。
もう、見かけ上は何事もないように見えた。だが、ノミやシラミの復讐心は凄まじいものがあった。執念だった。ノミやシラミにも魂って奴が宿っているらしいのだ。殺られてしまった恨みは消えない。
← シラミ(虱 (画像は、「シラミ - Wikipedia」より)
その執念は、板材だろうが、壁紙だろうが、あっさり透過してしまう。ノミやシラミの怨念は、奴らの体の数千倍にも伸び広がり、今では奴らの影は天井を覆い尽くし、壁を埋め尽くし、床をも占領し、もう、オレの居場所はなくなっていた。オレが出ていくしかない。
ああ、奴らの何と凄味のある存在感。
オレが出て行ったら、オレの犯行が露見してしまう。奴らを殺った事実が日のもとに晒されてしまう。オレが奴らに嫉妬していることを認めることになる。
オレはどうしたらいいのだ。
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