堀田 善衞『天上大風』から
堀田 善衞 著の『天上大風 同時代評セレクション一九八六─一九九八 』(紅野 謙介 編集)を読んでいたら、『日本書紀』や『懐風藻』を皮切りに、日本の文學(や史書など広く学問や教養人の素養)には、長く、漢文に親しむ歴史があった。それが明治の途中、特に大正の後期くらいには、すっかり廃れてしまった、といった記述があった。
← 森岡 ゆかり 著『文豪の漢文旅日記――鴎外の渡欧、漱石の房総 』(新典社選書 71) 「森鴎外のドイツへの船旅を綴った『航西日記』と、夏目漱石の房総旅行を綴った『木屑録』はともに漢文で書かれている」! 題材が興味深いけど、難しそうなので、小生は未読である。「漱石の漢詩は中国語で吟じられても美しい」とか。 (情報や画像は、「Amazon.co.jp 通販」より)
日本の文學の歴史を顧みるなら、漢文学の歴史を見ないと、幅の狭いものになる、などと。
「漢文学 - Wikipedia」には、「日本には文字が無かったとされているので、中国より漢字を受け入れた。そのとき、最初は中国語を習得することが最初の課題であった。朝廷の正史として編纂された『日本書紀』が、正統的な漢文で書かれたことも、そうした流れに日本社会があったことの例証である。散文のみならず、詩作も試みられ、『懐風藻』には、7世紀からの作品が収められている」とある。
9世紀の菅原道真などが漢文学の歴史の画期となった。「15世紀の禅宗寺院を中心にした〈五山文学〉の時期、18世紀の儒学が武士たちに広まった菅茶山たちの時期」も、漢詩漢文を広まった。
「明治維新のころも、西洋の文物を輸入するときに、翻訳語として漢文に源流を持つ語彙が多く採用されたこともあって、漢詩が流行した時期もあった」らしいが、その後は、急激に減退していった。
そういえば、上掲書の中で堀田は、『古事記』などは漢文学の範疇には入らないのだと強調している。
通常、勅撰の正史である『日本書紀』が成立した段階で、いずれかの豪族の私史書である『古事記』は焚書が運命づけられていた、などと説明される。だから、『古事記』は9世紀の冒頭以降、ようやく宮中の奥で徐々に顧られるようになっていったのだ…。
けれど、『日本書紀』が漢文の書だとしたら、ちゃんとした漢文こそが貴族の教養の証しである以上、『古事記』などはまともには扱われなかったのも、その「本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている」のだとしたら、『日本書紀』と『古事記』の両翼があることが、日本の漢文学の幅の広さを物語るのかもしれない。
→ 堀田 善衞 著『天上大風 ─同時代評セレクション一九八六─一九九八 』(紅野 謙介 編集) (画像は、「筑摩書房 天上大風」より)
一方、「明治維新後、文明開化による西欧文明の輸入と近代国家の建設が進められ、いわゆる「文学」という概念が生まれた時代」なのだとしたら、日本文学と呼称する場合は、漢文や漢詩は視野の外なのかもしれない。
明治の文豪である森鴎外や夏目漱石などは、漢文や漢詩を綴っている。読めるのは言うまでもない。
思うに、漱石などの文學を理解するには、彼らが漢文や漢詩の世界をどのように受容し身に付けたかも視野に入れないと……なんて野暮なことはさておくとして、明治以降の文學とそれまでの漢文学との端境期の文豪たちだったのだと、改めて思う。
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