« 我が家の庭にも春が来ている | トップページ | 堀田 善衞『天上大風』から »

2015/03/25

富山市を舞台の小説を夢見る

 この頃、新幹線富山駅開業ということで、お客さんとほんのひと時だが、お喋りする時間がある。
 無論、いろんな方とお喋りをする。富山(市)の方だと、新幹線が来る(通過する?)ということで、富山市は少しは賑わってきたのかが、どうしても関心事になる。
 開業は3月14日で、十日ほどになる。さて、一体、どうなのか。

53669632_2145037379_164large

→ 以下、いずれも、お絵かきチャンピオン さんの作品です。

 タクシーは観光客の方も乗せる機会があるのだが、残念ながら、増えているという印象は持たない。これは自分だけの印象ではないようである。他社も含めた同僚などに聞いても、芳しい応えは返ってこない。

 多いのは、せっかく新しい駅が開業したのに、工事が途中で、半端な状態の個所があまりに多いこと。
 開業に間に合わなかったどころではなく、まだまだあと数年は大規模な工事がつづく。駅の南と北を、それぞれ違う会社の路面電車を結ぶこと、駅を高架にして、その下に南北を通過する道路を作ること。

 小生は、ほんの一年前までは、富山駅の新幹線駅開業に合わせて、当然、路面電車は南北が繋がり、道路も高架下を通るものと思い込んでいた。
 が、開業の時が近づくに連れ、そんなことは夢のまた夢であり、それどころか、高架化の工事自体、終わらないし、駅内外の多くの工事も終わらない。

 駅の開業の日程は決まっていたのに、こんな体たらく。しかも、出来あがった部分も、どう見ても、改善の余地が大いにあるのだ。また、駅の構内だって、トイレの場所が分かりづらい、切符の自動券売機が少ない、ロッカーが足りない、とにかく、不備だらけ。
 もてなしがどうしたなんて、県を中心に盛んに研修を行っていたけど、実際は、その以前の課題が多いのだった。

53669632_2145036705_101large

 しかも、新幹線がやってくる前に<予感あるいは予期>はされていたのだが、案の定、金沢への客は圧倒的に増えていて、富山は、まあ、見物客が来るだけ。観光客は、これからに期待、という惨状。

 ある人とも話をしたのだが、金沢だと、新幹線がなくたって古都・金沢ということでやってくる。富山は何もないことはないのだが、さりとて、新幹線に乗ってわざわざやってくる目的地は立山黒部のアルペンルートくらいか。
 世界一美しい湾に富山湾が国連の機関に選ばれたけれど、整備はこれから。富山の各地の浜辺は綺麗とは言い難い。

 とにかく、富山は準備が遅い。尻に火がついてから、やっと動き出しているのだ。
 それに、富山(特に富山市)は、江戸時代から明治にかけて、さらに戦後に懸けても、治水に明け暮れ、開墾や産業起こしに没頭してきた。質実はそれなりに堅実である。慎重で、真面目で、手堅い。
(そういえば、我が母校の校訓も「慎重敢為」だった。)

 また、マイペース。周りは気にしない(視野が狭く、自分の周辺さえ平和だったら、それでいい)。車の運転にしても、信号が変わっても動き出さない。絶対安全になるまで、スタートしないのだ。それでいて、信号が赤になっても、金魚のうんこのように、ダラダラと後に続く。新幹線駅の開業状況を見ていて、ああ、遊び心のない、真面目で失敗を恐れる県民性が実によく表れていると感じた。

53669632_2145035290_31large

 まあ、富山は地域の町なのである。東京や金沢のような古都でも、都会でもない。富山は堅実な町を目指すのがいいのだ。雑踏が似合う街ではないのだ。みんなのんびり歩いているのだから、ゆったりがいいのだ。
 もてなしが大事と、県の担当者や知事などは訴えるのだが、持てなす心構えが県民にあるのかどうか、まず足元から確かめたほうがいいのだろう。

 視野の狭い人間にもてなしなど、論外ではないか。想像力が乏しいと、接待など無理なのだ。
 それより、ゆったりのんびりマイペース、周りの迷惑も気にしないそんな県民や市民に似合う町作りを目指したほうが無難なのである。
 さて、お客さんとの会話でも、富山の町には陰影が乏しいという話が出た(小生が出したのかも)。
 小説の舞台にしにくいのである。坂道もない、古い込み入った路地もない、街中に鬱蒼と生い茂った森(公園)もない。東京にはありあまるほどあった。富山だと、八尾などの山手のほうか、呉羽の界隈か。

9784480092649

← 堀田 善衞 著『天上大風 ─同時代評セレクション一九八六─一九九八 』(紅野 謙介 編集) (画像は、「筑摩書房 天上大風」より) 富山ゆかりの作家というと、久世光彦、辺見じゅん、堀田善衛くらいしか浮かばない。他にもいるんだろうけど。しかも、富山を舞台の小説というと、宮本輝の小説『蛍川』、新田次郎の『劒岳 点の記』、江戸川乱歩の著した短編小説『押絵と旅する男』、吉村昭の長編小説『高熱隧道』、松本清張の推理小説『疑惑』や『遭難』、柏原 兵三の『長い道』などが浮かぶ程度。この中に、富山市が舞台と言えるのは、辛うじて、宮本輝の『蛍川』と久世 光彦の『早く昔になればいい』くらいのものか。なんとか、富山市の、それも平野部、できれば中心街を舞台の小説を作りたい。

 富山市の、とある小さな町を舞台に何か小説をと思うのだが、遠い昔の富山を思い返して、虚構の中の富山を舞台に無理やり物語を作るしかない気がする。
 これは、小生が富山で(遠い昔はともかく)最近は恋をしていないからなのかもしれない!


[追記:富山を舞台の小説について、旧稿で扱っていたのを発見。拙稿「虫の音」(2004/12/11)の中で、内田康夫著の『透明な遺書』(講談社文庫)が話題の俎上に上っている。「テレビのサスペンスシリーズで有名な浅見光彦が活躍する小説。ゴミ箱で見つけ、パラパラ捲ると、舞台の一つに我が富山、特に富山城近辺が登場しているらしいと分かり、持ち帰り、早速、読んだ」のだった。(15/5/31 記)]

|

« 我が家の庭にも春が来ている | トップページ | 堀田 善衞『天上大風』から »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

富山情報」カテゴリの記事

社会一般」カテゴリの記事

コメント

素朴な質問です!
その主人公は、オトコマエですか?w

なんとなく、オトコマエの文体、ってあるぢゃないですか。
オトコマエなら、屈託を持たないで見過ごせるのに、
ぶさいくはついつい拘泥してしまうあれこれとかw。

中原中也とか萩原朔太郎とか、
オトコマエぢゃないですか。
桜の花は、形式も内容も美しく、
その樹の下には、きっとなにも埋まっていない。
ぶさいくは、屍体なんて持ち出して落ち着きを得る。
あ~、オトコマエで書きたいと思うこの頃!

投稿: 青梗菜 | 2015/04/02 21:14

青梗菜さん

今さら、オトコマエだなんて、論外、なんて言いません。
そう、オトコマエっていいですね。自分にはありえないから、なおのこと。

まあ、生まれながらの感性のデコボコが長年の間に昂じてしまって、にっちもさっちもいかない。
この富山の平野部のあまりの平坦さには驚き。これは、吾輩のちょっとばかりのひねくれ具合では太刀打ちできない。
畑の畝を耕すように、クワか何かで土を掘り起こさないと。

投稿: やいっち | 2015/04/03 22:19

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 富山市を舞台の小説を夢見る:

« 我が家の庭にも春が来ている | トップページ | 堀田 善衞『天上大風』から »