« パルミジャニーノにマニエリスムを嗅ぎ取る | トップページ | うすずもりきりきり »

2015/02/19

『女の皮膚の下』 あるいは、科学の発達の齎したアイロニー?

 啓蒙書や学術書系の本が続いたので、そろそろ何か文学系の本を読もうと思ったが、これから読む本が居並ぶ書棚に向かったら、読み残しの本が目に付いた。それは、バーバラ・ドゥーデン著の『女の皮膚の下 十八世紀のある医師とその患者たち 』(井上茂子訳 藤原書店)である。

9784894342583

← バーバラ・ドゥーデン著『〈新版〉 女の皮膚の下 十八世紀のある医師とその患者たち 』(井上茂子訳 藤原書店) 「18世紀ドイツの小都市で市医及び宮廷医として働いていた医師がまとめた症例集を通して、女の体内イメージを歴史的に読み解く。250年前の患者の記録から我々の身体観を問い直す」だとか。 (画像は、「藤原書店」より) 「『女の皮膚の下―十八世紀のある医師とその患者たち』感想:★★★★★ 買って積んで、たまに読む。日記

 本書は、昨年、クラウディア・ベンティーン著『皮膚―文学史・身体イメージ・境界のディスクール』(田邊 玲子【訳】 法政大学出版局)を読んだ際、参考文献がいろいろあった中の一冊。

 十冊ほど、書店に注文したのだが、ほとんどが絶版か品切れ状態。辛うじて、入手てきたのが、本書だったとうわけである。
 クラウディア・ベンティーン著の『皮膚』(法政大学出版局)については、拙稿「皮膚という至上の虚実皮膜」を参照願いたい。

4588352296

← クラウディア・ベンティーン著『皮膚―文学史・身体イメージ・境界のディスクール』(田邊 玲子【訳】 法政大学出版局) 「皮膚(身体)が文化的構築物であるという観点は、フーコー以来の共通理解となっている。本書はそれを立脚点に、言語、歴史、ジェンダー論、言説分析、精神分析などさまざまな分野と方法論を縦横無尽に動員し、聖書、慣用句、文学作品、芸術論、科学の理論といった言語資料、解剖学図版・模型、絵画や現代アートなどの図像的なものを駆使して、17世紀から現代にいたる皮膚観のパノラマを展開する」とか。ひたすら好奇心……と、自分なりのテーマに関連することもあって、読み始めた。 (画像は、「 紀伊國屋書店ウェブストア」より)

 バーバラ・ドゥーデン著の『女の皮膚の下 』(藤原書店)は下記のような章立てになっている:

序 ―― 体内の非歴史性に反論して

第1章 身体の歴史の出発点

第2章 ヨハン・シュトルヒと女性たちの訴え

第3章アイゼナッハにおける診療

第4章 からだのイメージ


 第1章から3章までも参考になるが、小生が読みたいのは、やはり、第3章であり、特に第4章。つまり、具体的な治療現場の様子である。まだ、そこまで達していない。実際の治療(外科など)より、(当時としての)内科など学問的な記述が高等とされた昔。治療を受ける患者は町の怪しい施術者に、あるいは民間療法というか、伝えられてきた自己診断による<治療>が当たり前だった昔。
 体の中は闇の世界であり、皮膚こそが界面として重要だった。そこは専門家ならずとも様相の異変に気付くことも多いからである。

30818565

← 谷川 渥著『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫2001/04刊) 「深みに「真実」を求めてはならない。なぜなら「生はいかなる深さも要求しない。その逆である」(ヴァレリー)からである」 こんなことがある種のリアル感を以て云えるのは、人体、特に皮膚の下が自分の体であるにも関わらず、医学などの専門家に委ねられてしまったから…そうした自覚の果ての絶望宣言なのかも。医学など、科学の発達の齎した皮肉なのか。

 皮膚という界面への理解は時代と共に激変してきたようだ。この辺りは、谷川 渥著の『肉体の迷宮』(ちくま学芸文庫)を手にするなど、本稿でも折々触れてきたところである。
 拙稿「谷川 渥著『鏡と皮膚』」など参照願いたい。

 拙稿「初化粧」こそが、界面としての皮膚をテーマの極め付けかも。

|

« パルミジャニーノにマニエリスムを嗅ぎ取る | トップページ | うすずもりきりきり »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

書評エッセイ」カテゴリの記事

社会一般」カテゴリの記事

コメント

皮膚の下は、結構グロテスクのようですね。
ひと皮剥けば、とはよくいったものです。
皮の下のことなど、考える機会はありませんが、未知なる小宇宙であることは間違いないです。
自分のものでありながら、何ひとつ知りません。
よく考えてみたら不思議ですね。

投稿: 砂希 | 2015/02/21 16:02

砂希さん

医学も生理学も解剖学も未発達だった18世紀ドイツ(他の国は推して知るべし)、どんな体調の異常も民間の伝承や近所の知恵のある人、自分なりの経験などが頼り。
病気も、外見から見える徴候で判断するしかない。
女性の病気も、血の流れを想像を逞しくして治療するしかない。乳の出が悪いと、瀉血などして直すしかない。
病気は魂の病という考え方の方が説得力があったのも、無理はない。
皮膚の下は、海の底や地の底などと同様、謎の世界だったわけですね。
逆に現代は、肉体の知識は医者など専門家のほうがはるかに持っている。自分の体でも専門家の手に委ねるしかない。
死さえも、外部にお任せ。

投稿: やいっち | 2015/02/21 21:46

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『女の皮膚の下』 あるいは、科学の発達の齎したアイロニー?:

« パルミジャニーノにマニエリスムを嗅ぎ取る | トップページ | うすずもりきりきり »